1950年

アフォーダンス

 ギブソン

認知心理学、認知科学、(認知科学とは「人間の知性」を研究して「知性をもった機械」の開発に応用しようというものである。)そして人工知能に決定的な影響をあたえた概念がアフォーダンスだ。アフォーダンス理論によれば、私たちは「眼でみているのではない」し「耳で聞いているのもない」。極端な言い方をすると「見させられている」「聞かされている」のである。

もうちょっと平易な言い方をすると大地は歩くことを支え、椅子は座ることを支持する、といったアフォーダンスを備えているといわれる。

ケプラーの知覚理論

 かのヨハネス・ケプラー(1571〜1630)は、知覚理論の面でもその先駆者であった。そして当時は彼の「小人理論」が広く流布していたのである

しかしこの方面の研究は現代でも難しいが、当時のケプラーの理論は、甚だ稚拙なものだった。

簡単に説明すると「外界のイメージが網膜に結像して、その網膜を頭の中の小人が見ている」といったものだった。しかし「小人理論」は欠点があり、網膜に映った小人の頭の中にまた小人がいて、その小人の中にまた小人が−という具合になってしまう。

 

デカルトの知覚理論

このケプラーの知覚理論を最初に否定したのが、ルネ・デカルトだ。

まずデカルトは網膜像が、外界通りに映っていないことを射影幾何学から証明した。確かに外界の円の像が、網膜では卵型に映るのである。

ではそれがなぜ円に映るのか?そこでデカルトは「心」で見ているのだと結論を付けたのである。2次元の網膜から3次元のものが見える仕組みも心によるものとした。デカルトのいう心を現代の言葉では、感覚刺激を統合し、判断し、推論し意味を作り出すものとなる。

こうした「知覚モデル」は初期の人工知能のベースとなっていた。しかし環境の変数を見くびって「知能」は「中枢」の指令に従う「出力」と考えられていた。これが「トップダウン指向」の知能だ。

しかし「トップダウンの知能」はすぐに「フレーム問題」にその道を閉ざされた。

1980年以降の「知の科学」に携わる科学者は血眼になってこのブレークスルーを探し求めた。

そして半世紀以上も昔、ギブソンによって書かれた「アフォーダンス理論」を発掘することになったのである。

 ゲシュタルト

 ヴェルトハイマー、ケーラー、コフカを中心にすすめられた心理学上の認知問題の1つ。

ゲシュタルトとは「感覚はその総和以上のもの、総和とは異なったもの」と定義される。

例えば、音のつながりは、メロディーという美しさを人に認識させることができる。

しかし、なぜこうした知覚が可能になるのだろうか?

ファイ現象

 この問題に対して3人の心理学者がだした答えが、「ゲシュタルトの知覚は要素を感覚することを同じレベルで起こる」といったものだ。そしてその証拠として提出したのがファイ現象だった。

 実験方法は、直線上に豆電球をいくつも配置して、点滅を移動させていうというものだ。ゆっくり点滅を移動させると単なる点として認識されるが、速度を早めると、光の移動に見えてくる。そしてこの2つの知覚は同時に起こらないということがファイ現象という。

 要素刺激が下でゲシュタルトが上なのではない、この2つは同じレベルの知覚なのである。

 この結論は知覚の伝統理論に大きな疑問を提示した。つまり、特定の感覚刺激は、特定の知覚を引き起こすといった伝統的前提を崩してしまうものだった。

ビジュアルワールド

 こうした知覚に関する疑問に対して、ギブソンの回答は、ビジュアルワールドという視覚の拡張だった。1940年代にパイロットの空中戦での知覚能力の研究がきっかけになった。

 それによれば我々はただ網膜に映った点としての静止画像を認識しているのではなく、

1)背景の空間から知覚し

2)形をみているのではなく、その「動き」を見ている。

3)その動きに自分自身の姿勢を見る

しかし網膜を捨てるにはさらに理論を構築する必要があった。

光の配列

 1950年に入りギブソンは、光をテーマに研究を進めた。

 その一つの実験にこんなのがある。

  1. 白と黒の正方形のプラスチックの板の真ん中を直径30cmの円でくりぬく。
  2. 次にこの板をドミノのようにきれいに並べる。板と板の間には間接照明が照らされる。
  3. そして、ピンホールからこの円をのぞき込む

 する何もないはずの板と板の間に、「面」で埋めらた立体的でリアルなトンネルが見えたのである。

 さて、このことからギブソンは「対象物が何も存在しなくても光そのものが情報になる」ということを観測したのである。

生態光学(エコロジカル・オプティクス)

 伝統的に光学は、一つの事実を基礎にしてきた。それは「放射」という光の性質である。従来はこの放射という光源から直線的に眼に入る光しか考えていなかったが、実際我々のおかれている環境は無数の面に反射し、無限に錯乱した光に包囲されている。

 そして放射光は構造をもたず単なる刺激にすぎないが、包囲光は情報となりうるのである。

不変項

 包囲光配列から不変項をピックアップするのである。

 この不変項は2種類に分かれる

 

エコロジカル・リアリズム

環境

 「変形」と「不変」は我々の知覚のベースである。つまり世界は「持続と変化」によって満ちている。

  伝統的な認知科学では、人間は環境から刺激を受け、それを脳が意味のある情報に作り替えていくとしたものだった。

しかしギブソンの「生態学的認識論」は環境そのものに情報はあるとしたのである。私たちはそれを探索するにすぎない。

自己

光の散乱には自己の情報も含まれる。

さらに環境との関係は「生態学的値」で認識される。

例えば、距離についてはメートルなどの物理的距離と自己のサイズの1.2倍とか3倍とかいった値がある。

人混みをすり抜けるときはその人の肩の1.3倍以上ないと肩を回転させるとかなどの、値である。

アフォーダンス

アフォーダンスは事物の「物理的」性質だけではない「動物的」な価値である。

「すり抜けられる隙間」、「登れる坂」、「掴める距離」は、アフォーダンスである。

例えば、紙一枚とっても、厚いものは手で破れないことをアフォードしてくるが、同時に持てるだろうことをアフォードしてくる。そして燃えるだろうことをアフォードして、更に臭いや温度、叩いたときの音までアフォードしてくる。

これは個々人によってすべて違って、無限に存在するのである。

しかしこのアフォーダンスは主観的なものではなく、環境に普遍的に存在し、その価値は知覚者の主観によって変化しない。例えば、疲れているときだけ椅子は「座れる椅子」なのではなく、疲れていようが、いまいが、「座れる椅子」をアフォードしている。

言い換えるとアフォードは「公共的」なものである。

個々人によって無限に存在するというのは、もともとあったアフォードを知覚者が経験によってピックアップするかしないかの違いなのである。このピックアップするための身体の動き、経験、機能を「知覚システム」という。

さて今、君のいる部屋なりをこのアフォーダンスの視点で眺めてみて欲しい。

なにをピックアップするだろうか?「自分を支える椅子」「自分に涼しいクーラー」?

知のアフォーダンス

これまでアフォーダンスが我々に与えるものは環境とされてきている。しかし「知」も同様に無限のアフォーダンスを与えるものと考えられないだろうか?それを知る前と知ったあとでは世界が違って見えることを誰もが経験しているはずだ。

 

あとがき

ギブソンの理論と出会うと、世界の見え方が変わってくる。

いま自分が見えているその原因を環境の中にさがすようになるのだ。

そして彼が残したもののうち「どうしたら何ものにも、とらわれない状態を構築するか」ということも非常に重要だ。

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128「アフォーダンス」 新しい認知の理論 佐々木正人 1994 年 岩波

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