http://www.soratotaiyou.com/mythology/target_text.aspゼウスはヘパイトスに土からパンドラを作り、ゼウス自ら生命を吹き込みました。アテナは、知恵と紡いだり織ったりする技を与え、アプロディティは美しい肉体を、アポロンは美しい歌声と病気を直す力・・・・・・・をそれぞれ与えました。
最後にヘルメスが、美しい彫刻の入った金の箱を与え、「その箱には見てはならない不思議な物が入っているから決して開けてはならない」と言ったのです。
そう伝えた後で最後に好奇心を与えました。

実は、これは、火の使用を覚え誇り高ぶっている人間を、制圧することを目的としたゼウスの計画だったのです。
パンドラはエピメテウスと結婚し、幸せな生活を送っていました。しかし、パンドラには一つだけ気になることがあったのです。
「この金色の美しい箱には、どんなものが入っているんだろう。」
昼はその箱を眺め続け、夜はその箱の夢を見るのでした。パンドラは、とうとう我慢出来なくなって、箱を開けてしまったのです。
すると箱の中からは、毛むくじゃらの黒い生き物が沢山でてきました。実は、この化け物は、病気、貧困、犯罪といった人類を悩まし続けるあらゆる災害だったのです。パンドラはあわてて箱を閉めましたが、たった一つの化け物を残して全ての化け物は出てしまった後でした。
箱の中に残ったたった一つの化け物の名は、「前兆」。人類にとって、この化け物「前兆」を閉じ込めることが出来たのは不幸中の幸いでした。もし、この化け物が飛び出していたら、世界中の人間が人生でこれから何が起こるか予測出来てしまい、そうなれば希望を抱くことが出来なくなり人類は破滅していたに違いないからです。
人間は、災いから生き残ることは出来ても、希望無しに生き続けることは出来ないものなのです。


ゼウスは誇り高ぶっている人間を制圧する為に、パンドラを地上に送って、罰を与えた。
パンドラは、祝福ではなく呪い、すなわち戦争、苦痛、死、病気その他すべての苦難で満ちた箱を持っていった。ゼウスの思惑どおりに、パンドラは好奇心から箱を開け、苦難は解き放たれて、人間の間に広がった。あわててパンドラが箱を閉めると、箱の中には「希望」だけが残り、パンドラは再び箱を開け、その「希望」も解き放った。
実は、この希望もゼウスの策略だった。残酷さの総仕上げとして、ゼウスはまやかしの「希望」をも人間に与えたのである。
人間達が絶望のあまり、天界の父の意志によって自分たちに課せられた苦難の報酬から逃れようと、自殺をはかるのを阻止するためであった。


パンドラの犯した最大の罪は、箱を開けた事ではなく、最後に一つだけ箱に残っていた「希望」までも解き放ってしまったことであると言われている。


 

パンドラの箱の謎
 ギリシャ神話で誰でも知っている話に「パンドラの箱」がある。
 この話で誰しもが疑問に思うことは、災厄を封印した箱「パンドラの箱」に、何故か「希望」が入っていることであろう。
 では希望は災厄なのだろうか
 間違いなく災厄である。
 こんな格言もある。
 「人は二つのことから過ちを犯す、絶望と希望から」
ただし、これはあまり有名ではないようで、一般に「希望」は圧倒的な美徳とみなされている。Googleでサーチして唯一発見できた例外は面堂終太郎の「時として1%の希望は100% の絶望よりたちが悪い」だけである。(高橋留美子が思いついたのだろうか。)

 なわけで「希望は災厄」という説は一旦脇に置こう。

 他にも希望が入っていた理由として推測したのは、

「災厄を箱の中に封印する魔法の「触媒」として「希望」が必要だったから。」
自分では納得している。
 ただし、この解釈が正しいとした場合別の疑問が生じてくる。
 パンドラの箱に災厄を封印しようとした人は、希望を犠牲にしてでも災厄を封じ込めるべきであると判断したことになるが、それはギリシャの神々の総意だったのか?反対した神だっていたに違いない。だって希望のない世界なんてとってもつまらないじゃないか。
 まあ、封印した後、パンドラの箱を意識的に開けて元に戻したわけではないことから、たとえ希望がなくなっても、災厄のないほうがいいという判断を皆が納得していたことが推測される。
(まあ我が日本ですら生態系を犠牲にしてでも有明海を封じ込める判断が間違っていたのではないかと思うと、ためしに水門を開けたくらいだから、ギリシャの神々がよほど硬直的な官僚的な体質を持っていない限り、封印したのが間違っていたと判断したら再度開けてみたはずである。)

 更にはでは誰が魔法を用いてパンドラの箱に災厄を押し込めたのか?という疑問も生ずる。
 ギリシャ神話の神々が作り、かつ希望と共に災厄をそこに詰め込んだのであれば、パンドラが箱を開けたあとでも、もう一度災厄を箱に戻そうとしたはずではないか。ということは、神が不死であるという前提を置く限り、パンドラの箱はギリシャの神々が作ったのではないことが分かる。
 天照大神は高天原で神にとっての神を祭っていた。それが誰であるかは神話に記述されていないが、神より高位の存在者が存在することは想定されている。ところがこのような記述はギリシャ神話にはない。ゼウスがあがめるような高位の神がいるのであれば、その存在者が作ったと推測できるが、そうではない。
 つまりギリシャ神話の体系の中では、パンドラの箱を作れたものはいなかった。
 ということは魔法でパンドラの箱に災厄を封印したのではないことになる。

 ならば発想を変えなければならない。つまりパンドラの箱の内容物は外から入れられたものではなく、内部から発生したものであると考えざるを得ない。従って中身が飛び出たが最後、だれももう一度箱の中に納めることができなかったのだ。

 密閉された箱の中で発生する忌まわしきもの。。。というと。。。給食の残りのパンを机に突っ込んでいたらやがてカビだらけになるあの姿。
 これだ!!!
「災厄とは希望に生えたカビである」

 もともとパンドラの箱には希望だけが入っていたのだ。ところがそれを誰かがほっぽっていた。密閉された箱の中の希望、次第次第に災厄が生えそれが希望を栄養に増殖してゆき、やがて箱全体を満たし、内部の圧力が高まる。
 パンドラが箱を開けたのはこのときだ。災厄は上昇した内部の圧力に耐え切れず飛散したのだ。丁度カビの胞子が飛ぶように。
 これは「なぜ希望だけが飛散せずに箱の中に残ったか」という別の疑問にも答えてくれる。パンとカビなら、カビは飛散してもパンはそこに残る、パンドラの箱も同じようなものだろう。

 もちろん、災厄と希望という異質のものが同じパンドラの箱に入っていたかという最初に疑問にも答えが出る。もともとの発生要因が違うのだ。希望は箱に詰められた善きもの。災厄は希望を省みず放置していたがゆえに発生した悪しきもの。

 かくして、このパンドラの箱の寓意が明らかになる。希望それ自体は善きものであるが、それを忘れて放置していると災厄に変わってしまう、ということだ。希望にも常にメンテが必要なのだ。
 ここで希望は災厄であるか、という最初の疑問に明確な答えが出る。希望そのものは災厄ではないが、災厄の種となりうるのだ。


 

 

http://www.libpost.com/pandora

人間の幸福の権利、「死」という幸福の権利について

「パンドラの箱」改め「パンドラの壺」これがこのサイトのタイトルである。箱とか壺とか二つあって紛らわしいが、いにしえの不確定要素が招いた、ごくありがちな混乱であり、今のところどちらでもよろしいという立場をとる。
ただし、「箱」とすれば、大工によって作られたという人為的・観念的なイメージの方向になり、実際この神話の子孫とオーバーラップすることになる「ノアの箱船」まで至る。
しかし「壺」とすれば、生命が生まれてくる根元である「子宮」のイメージに近づき、これは女性の体にある天与のものであり、諸悪が飛び出してきたり生まれたりするあたりも、まさに出産を彷彿とさせるものである。
このように、話のそもそもの最初にこのような混乱をはらんでいるあたり、二千年以上持ちこたえた深甚なる内容を感じさせるものである。

「マインドウィルス」というよけいなタイトルを付けてあるが、検索エンジンで調べてみたら、「リチャード・ブロディ」何某、他さまざまあることがわかった。コンピューティングも関わるし、たしかに確かに現代的に避けられない概念であろうと思われる。


ギリシャ神話の「パンドラの箱」を歪曲して語るようなものであるが、一つの解釈が二千年簡続いたからといって、何も疑わずに納得すればいいというものでもなかろう,と私は思うのである。すでに、「パンドラの壺」が「パンドラの箱」となって異義もなく伝承されていること自体、後世の恣意的な脚色が大きい曖昧な物語なのである。
ちょうど私は、心、感情、欲望、精神、魂、霊といったものを分解してみたいと強く思い始めるにおよび、パンドラの壺のシンプルな原型に自然に引きつけられたのである。そう思ってみると、パンドラが預かってきた壺からやんややんやと出てきた「不幸」や「災い」、といったものが何なのか、最後まで残ってふたをされてしまった「希望」とは何なのか。それらのことがとても気になったので、サイトのタイトルに借りるに及んでしまったのである。と同時に、神話で掲げられたテーマが現代の我々にとって何を投影しているのかを対照して見るとき、いつしか我々に「もっともだ」と思わせてしまったパンドラというシンボルは現代の感覚で言えば「ウィルス」に対比することができるように考えられ、マインドウィルスという概念を創ってみたのである。人類の祖と伝えられるパンドラさんには申し訳ないが、あなたの名前をここではウィルスの名前に置き換えさせてもらいたいのである。覚醒のためにいったん屈辱を堪え忍んでいただきたいのである。
そのようないきさつからこのサイトは生を受けることになったのである。

【マインド・ウィルス】
化学兵器や薬品といった外部からもたらされる一切の物事には無関係で、ノーマルな人間が存在と共に精神に抱え込んでいる特定の作用を指すものであり、風邪・インフルエンザの肉体に対するウィルス、パソコンのプログラムに対するウィルス、そして当然あるであろう精神に対するウィルス、というわけである。

では、「希望」を抱いて眠りづける「壺」はいったい何者か?
これは、「明日が良い日でありますように」とか「願いが実現しますように」とかいう根拠をもたない願望のことなのだろうか。そうではなく、ここに書かれた「希望」とは絶対的な精神覚醒の代名詞としてとどめられたものではないだろうか。そんな予感から、十個の部屋に分解して取り組んでみることにしたのである。
私はどの角度から見ても「覚醒」を標榜するような人間ではないし、単に真理はいかに、そんなことを考え続ける人間にすぎない。その意味では、貧弱な人間の頭で考えたことを書くしかできない。優等な頭脳も持っていないし、人に教えるようなこともなんら身につけてはいない。つまりここを読んで共に迷子になる可能性はあるにせよ、ありがたいことなどはどこにもないということだけは初めから言明しておきたい。私の考えが気にくわないと思うであろう人が存在することはわかるのである。その意味では、受け入れてくれる人を求めているのではなく、自分自身の精神の航路がどこを漂っているのかを確かめたいだけなのかもしれない。

私自身がウィルスになってみたくなった今、まったく勝手な考えを公開したいと思っている。しかし「放談」とは意味が違うし道が違うので、そのようなディテールを労なく見分けられる人に読んで頂きたいと願うのである。

テロ、アフガン戦争、イラク戦争、コロナウィルス・新型肺炎‥‥異様な出来事で巻頭を飾る21世紀物語、こんな季節はずれな時代に、である。

 

人間の本能から考える。

例えばこのような仮説は真実であろうか。
遺伝子の情報を我々は感覚でとらえており、その感覚と発生は無意識下になされるものである。
我々は人を見つけると条件反射で相手を同類だと意識する。
人間に精神や至高があるからと思いがちだが、実は虫にしたところで動物にしたところで反応は同じなのではないか。
我々人間は、ある意味で自分たちの知らないプログラムをただ上手に使って生存しているのではないか。さらにそうしなければ生きていけないこともこのプログラムには含まれているように考えられるのだ。それじゃ動物と同じで生きる意味なんか考える余地はない、それもいっぱしの結論かもしれない。
しかし、我々の悩みや苦しさ、希望、意欲。この人生のドラマは、その閉ざされた世界に気づくこと、それを認め得た自分精神に疑問を持つこと、その不条理な事実の格闘の中から新たな世界に気づくこと、さらに、閉ざされた世界と新たに発生した世界の整合が矛盾無く起こること、人生とは、これら一連の変容を含んだもののように観えたとき、人間の「自由」が正体を現すのである。


















 

 


 

【喜び】

喜びは善良な行いの結果に対してだけ微笑むわけではない。悪事に夢をいだいて成功した!?時だって惜しみなく微笑んでくれるだろう。
このような一見素直で善意で無垢な言葉に、なぜこのような反面を持ち合わせているのか。出会いの喜び、家族の喜び、心が通い合う喜び‥‥‥、幸福への道しるべともなりうる「喜び」、ここにパンドラが潜んでいるのだろうか。

【幸福とパンドラ】

幸福は人にとって最大の願いである。まさにパンドラの災いに勝利してもたらされるべきもののようである。
しかもワクワクして天上にもっとも近い状態にも例えられるもののようである。私はそのように生き得た人をあこがれをもって見ることはあれ、なんら否定しないものである。ただ私は、現実の世界で全うし得た「幸せの人」を見たことがないのである。確かに幸せのシーンにはたくさん目に触れることができたしこれからもたくさん出会えることであろう。しかしやっぱり幸せを全うする人にはお目にかかれるかどうかわからないと思うのである。
なぜなら、人は死ぬからである。
がっちりつかんだ幸せというを手柄を、どんな人もそこでもぎ取られるしかないのである。

なにか違うのではないか。そこに私は「幸せ」というものに潜んだパンドラを予感する者となるのである。


【不幸とパンドラ】

不幸というのもまた重いものである。しかし救いもある。中国のことわざにある「人間万事塞翁が馬」。意味だけ要約すると、人生流転の節目節目に思う、やれ幸せなことだ、やれ不幸なことだといった情感も、出来事の流れの行く末しだいでは正反対になることもあるよ、という永年の知恵をつづって今に残った言葉である。
いじめ、受験の失敗、交通事故、倒産、失業‥‥。年代世代を問わず不幸の例に事欠かない時代ではあるが、「不幸」とは何であろうか。
僭越で暴虐でわがまましほうだいで自爆してしまった人を、他人は不幸だと哀れむだろうか。不幸と苦しみをシビアに分けて考えると、不幸とは、精神と心の関わりかたによって導かれる「我に対する無明の心情」と定義できるのではないだろうか。

我々は現に今、なぜ不幸に落ちるのか、どうすれば避けられるか、そのいずれもわかっていない。
私がこのサイトで行いたいもう一つの側面は、パンドラというウィルスの中に自分自身を見ようとする試みなのである。
 


【不安と恐怖】

パンドラと闘いもつれ、複雑に絡み合った姿ががここにある。最初は不安の原因がはっきりしているが、やがて原因のない不安が心に住み込んでくる。
バランスの崩壊とくくることができるであろうが、一つは生活環境によってもたらされるもの、もう一つは個の考えや経験に固有のメンタル機構が関わって生み出されるバランスの崩壊。

では、それぞれのバランス崩壊のどこにパンドラが隠れているのであろうか。
 


【満足の中のパンドラ】

満足→喜び→幸せ。
見るものにシンプルに達成感を伝える構図である。非の打ちどころのない善の基本形といってもさしつかえないようなもののどこにパンドラが潜むというのか。

ところがここに警戒度ナンバーワンのパンドラウィルスが潜むのである。満足の動機はなにで結果は何か。私はここに実に巧妙に善に化ける最大の悪魔を見るのである。欲望、我欲、といった、切り離せば人は死ぬし、そのまま染み込ませておけば人は悪魔になるというパラドキシカルな問題を含むから最大級の賛辞を贈るのである。
賛辞とはいっても褒めたり肯定したい気持ちはない。頭(思考)だけで解決できるようなものではない、という神と悪魔への畏れを込めて書いたのである。
 


【戦いとパンドラ】
パンドラに導かれ我々もいよいよ平和な世界をめざして歩き始めた。そして地球上の人すべてがパンドラと握手をして平和を誓い合った。

とても皮肉な書き方をしたが、意外にそれは真実かもしれない。なぜそんなことが過去に起きなかったかといえば、握手しようにも、だれもパンドラの正体を知らなかったからなのである。
マインドウィルス・パンドラ発見の旅、と悪し様に例えているが、私は決して敵だとは思ってはいない。正体を知ろうとしない曖昧な精神こそ悪であり人間に潜む敵のように思っている。しかも平和のパンドラは外に向かった意識ではないのである。我が身の裡に向けた意識なのである。




 


【不満】

これはそのままパンドラと同盟した在り方ではないだろうか。別にいえばパンドラ体質化したといえる姿。
不満は誰かが他人にしでかしたというような、自分に利害のない事柄には発生しない。国を憂え、平和を願う我々には自分の利害を越えた不満がある、と反論する前によく考えてみよう。
社会に犯罪が増えた故の不安、経済の停滞から生活の安定がぐらついてきた事への怖れ、いつまで経っても秩序だたない社会文化に対する無力感、こういった生活を安定・安心させない間接的な要素が、正体のない「不満」に化けて心の指揮者になっているケースもありはしないか。
本当に怖いのは誰も気が付かないうちに、正義だ愛だ平和だと不満に感情をすげ替えられていくことではなかろうか。
 


【怒りとパンドラ】

我々にとって「過去」とは何であろうか。人間のサンプル、人間の行動のサンプルに過ぎないのであろうか。そう思えばそこにパンドラウィルスのサンプルも見ることが出来るわけである。
ちょっと話を変えれば、我々は必ず死ぬ。私はそれを人に与えられた絶対的な権利、全ての人に授けられた幸せの権利ともとらえているのであるが、とにかく人は死ぬ。そして無数の死を人々は目撃してきたのであるが、あくまで目撃したのは肉体の「死」に限られている。そもそも見えないとはいえ、精神の「死」を目撃した人はいない。三途の河原、花の咲く野辺、人との出会い‥死の淵をさまよって現世に戻ってきた人は私の知る限り同じようなことを語った。ここでのポイントは話の分析ではなく、看取るために集まった人にとっては屍かどうか見境が付かなくなった肉体の奥で、精神は生きているということ。
誰も精神の死を目撃していない。もしかすると私はかつて死んだ人かもしれないのである。となりのあなたもいつか死んだ人かもしれない。その真偽は私にはわからない。そんな我々にとって「過去」とは何であろうか。
 


【絶望とパンドラ】

パンドラの箱の話では「災い」「不幸」「争い」などが地上にもたらされたことになっているので、そもそも人類は地上で長持ちするはずがない気がするが、あの話の中ではパンドラは無垢な女性であって、神様の持たせた土産こそが悪いようにも思う。人が悪いぜ神様のくせに‥‥‥、と思いかかってよく考えると、神様が全面的に悪いのもなさそうである。神様は人類のためにしっかり「希望」も荷造りしておいてくれたのだから。

何を意味しているのであろうか。たとえば最初に「希望」が飛び出してきていたらどうなっていただろうか。なぜ最後まですみっこにくすぶっていたのか。さらに、なぜふたをされて閉じこめられてしまったのか。勢いよく飛び出してくるもろもろに目を奪われて冷静な判断を失った、あさはかな人間の行いをいってるのであろうか。
いずれにしても本来善も悪もない感情や心と精神のつき合いという人間の構図を象徴しているもののようである。

神様の意図やいかに。


【希望】

ついに人々にもたらされることの無かった「希望」でる。
我々はその箱の中に「希望」が隠れているということを知らされている。我々がなすべき事はパンドラの箱を探すことである。ところで、どこにあるのだろうか。

問題はここである。
パンドラ発見の旅はパンドラの箱の発見と表裏をなしているのである。私はマインドウィルスとでも呼ぶべき心理的かつ精神的なギミック作用を為すものに失礼ながら「パンドラ」と名をつけてしまったけれど、「希望」はそれを克服するいわば薬のようなものであろう。その仙薬は東方の海はるかかなた、にあるのではなく、いつも私と共にあるものらしい。とすれば、パンドラの箱とは「人間」の事のかもしれない。
 


希望

希望はパンドラの箱に残された神のしかけ

人間にしかけられた神からのトリック

三千年にわたる 悠久のしかけ

最初の千年は ほんのかけらも疑わず生きてきた

次の千年は 振りまわされて生きてきた

最後の千年は 気づきながらもどうすることもできずに生きてきた

トリックだと知った今 人間は神に立ち向かう時が来た

パンドラは女性のシンボル

神はいつも女性を使って トリックをしかける

それなら 人間も女性を使って 神にトリックをしかけよう

神も女性が お気に入り

さあ 次のミレニアムの理想の女性を造りだそう

神も戸惑う 素晴らしい女性を造りだそう

そして 神に希望を与えよう

その希望の入った箱の名は 玉手箱

竜宮城から持ち帰った 浦島太郎の玉手箱

神は素晴らしい竜宮城の女性の玉手箱を開けるだろう

開けたら 神は 自分が人間でないことに 気づく

真っ白な髭の神であったことに気づくだろう

そのとき 希望は神のトリックから 解き放たれる

そして 人間のための希望になる

さあ 恐れず ためらわず 希望を持って生きてゆこう



パンドラの箱

あなたは、なぜ生きているのか考えたことがありますか。
毎日、同じことを繰り返しているだけです。
朝、起きて、夜、寝る。その間もほとんど同じことの繰り返しです。完全にマンネリです。
それなのに、生きている。どうして? パンドラの箱をいつも携えているからです。
パンドラの箱のはなしを知っていますか。これはギリシャ神話です。
パンドラは、ギリシャ神話の最高神ゼウスが泥から造ったといわれる地上最初の女性でパンは"すべてを"で、ドーラは"与えられた女性"という意味のゼウスが認めた女性であったにもかかわらず、プロメテウスが神の世界の火を盗んだ罪に対してゼウスが、復讐のためパンドラに与えた箱で、その中にはすべての災いが詰まっていて、ただ「希望」だけ残して地上に飛び散った、というはなしです。
その「希望」が現代でも人間を迷わせているのです。ゼウスの人間に対する復讐が今でも続いている。
「希望」があるため人間は生きている。ですがその結果、現在この瞬間を生きることが、すなわちリアルに生きることが出来ないでいるのです。
パンドラの箱の中にあった「希望」が、現在を生ききることを邪魔する災いになっているのです。
あなたは、「希望」という言葉を肯定的に捉えているでしょう。だがゼウスは、人間にとっての災いの元にした。この違いは何でしょうか。ゼウスのトリックです。
「希望」は未来にある。その結果、現在を逃す。これがトリックです。
いつか、どこかで、何かが起こる。これが希望です。
いつかは、今、断定出来ない。
どこかも、今、断定出来ない。
何かも、今、断定出来ない。
それが「希望」の実体です。
だがそれにすがって生きているのがあなたです。まだやって来ない未来に生きているのがあなたです。現実は今、ここ、にしかない。
「希望」があなたをリアルに生きさせることを邪魔している。
そして「希望」という誘惑の言葉に惑わされて、この瞬間を逃して夢を見ている。
しかも、その夢をリアルと勘違いしているから、その夢にせっせとエネルギーを与えている。実体のないものにエネルギー(力)を与えると、大事なエネルギーがエントロピー(再利用不可能なエネルギー)になる。それは、作用・反作用の法則に沿った運動が出来ない(のれんに腕押しの状態)ため、与えたエネルギーと同じ量の負のエネルギーが生じるということです。これは心身ともに疲れる。
だから毎日同じ繰り返しをしているのに疲れる。普通、同じ運動を繰り返すと、慣れから、疲れは少なくなっていくのが当たり前です。
ですがあなたは、繰り返せば、繰り返すほど、疲れる。身も心も。それが大人になるということらしい。確かに子どもは同じ繰り返しをしても決して疲れない。
エネルギーが負の循環になっていないからです。エントロピーをつくっていないからです。
それは、瞬間をトータルに生きているからです。常に根から発するエネルギーを使っているからです。
大人は外からのエネルギー(食物も含めて)を使って、しかも、まだ来ぬ未来に「希望」を持って生きている。外からのエネルギーは有限です。結局は疲れ果てておしまいです。
子どものしていることは、それがたとえ、倫理的にも、道徳的にも問題があったとしてもトータルです。根からのエネルギーによって動かされている。そのエネルギーは宇宙エネルギーですから無限です。
宇宙が子どもに無限のエネルギーを与えているように、あなたもリアルなものにエネルギーを与えることです。リアルでないものに与えてはいけない。
パンドラの箱に残された「希望」に執着したら、ゼウスの復讐に遭う。
パンドラの箱の中に残された「希望」はアダムとイブが食べた「知識の実」です。
知るということは、「現実」になかなか繋がらない。知らない、無知の方が「現実」に繋がっている。このことをよく認識しておくことが大事です。無知な子供が現実的に生きることが出来る。知識の実を食べるとエデンの園という「現実」から追放される。トータルに瞬間を生きるとき知識は必要ない。過去や未来に生きるから知識が必要となる。
パンドラの箱の中に残っている「希望」に騙されないことです。
「希望」を持って生きることは、現実的に生きないことです。
「希望」はあなたを過去から未来に飛び越えさせる。現在を生きさせないために。
それが、ゼウスのパンドラに与えた復讐の箱です。
その箱は、この瞬間を逃せば近づいてくる。この瞬間を掴めば遠ざかっていく。
http://www.mec-net.com/short-story/advanced-62.htm


大神ゼウスが人間に与えたものは、病気、嫉妬、裏切り、争い、絶望、悩み、疑い、恐れなどのネガティブなものだけではありません。「希望」という、災いを打ちまかす素敵な贈り物を“パンドラ”を通じて贈ってくれたのです。http://www.so-net.ne.jp/storygate/story/pandora/

パンドラの箱


ゼウスが鍛冶神ヘファイストスに命じてつくらせた人類最初の女・パンドラがいた。

プロメテウスが天上の火を盗んで人間に与えたことに腹をたてたゼウスは、

その報いとして人間に災いをもたらそうと考えた。

神々からあらゆる魅力や美徳をさずけられたパンドラは、プロメテウスの弟エピメテウスの元におくられた。

ゼウスはヘパイトスに土からパンドラを作り、ゼウス自ら生命を吹き込みました。

アテナは知恵と紡織する技を与え、アプロディテは美しい肉体を、アポロンは美しい歌声と病気を直す力を与えた。

最後にヘルメスが美しい彫刻の入った金の箱を与え、

「その箱には見てはならない不思議な物が入っているから決して開けてはならない」と忠告をした。

そう伝えた後で最後に好奇心を与えた。

実は、これは、火の使用を覚え誇り高ぶっている人間を、制圧することを目的としたゼウスの計画だったのだ。

エピメテウスはゼウスの贈り物は受け取ってはならないというプロメテウスの忠告を無視し、パンドラを妻にした。

パンドラはエピメテウスと結婚し、幸せな生活を送っていました。

しかし、パンドラには一つだけ気になることがあったのです。

「この金色の美しい箱には、どんなものが入っているんだろう」

昼は箱を眺め続け、夜はその箱の夢を見つづけていた。

パンドラは、とうとう我慢出来なくなって、箱を開けてしまった。

すると箱の中からは、毛むくじゃらの黒い生き物が沢山でてきた。

この化け物は、病気、貧困、犯罪といった人類を悩まし続けるあらゆる災害だったのだ。

パンドラはあわてて箱を閉めましたが、たった一つの化け物を残して全ての化け物は出てしまった後だった。

箱の中に残ったたった一つの化け物の名は「前兆」。

人類にとって、この化け物「前兆」を閉じ込めることが出来たのは不幸中の幸いでした。

もし、この化け物が飛び出していたら、世界中の人間が人生でこれから何が起こるか予測出来てしまい、

そうなれば希望を抱くことが出来なくなり人類は破滅していたに違いないからだ。

苦難は解き放たれて、人間の間に広がった。

残酷さの総仕上げとして、ゼウスはまやかしの「希望」をも人間に与えた。

彼らが絶望のあまり、天界の父の意志によって自分たちに課せられた苦難の報酬から逃れようと、

自殺をはかるのを阻止するために…。

このあと、パンドラはどうなったのか誰も知らない。http://www.apu.ac.jp/~hirosic1/pandora.htm
 


異説パンドラの箱




パンドラの箱の話はご存知でしょうか。かなり有名な話なのでご存知の方も多いかと思います。私はこの話に昔から矛盾を感じていました。開けてはいけないと言われていた箱(もともとは甕。以下気分で使い分けます。)を人類最初の女性であるパンドラが開けてしまい、中に入れられていた数々の災厄が飛び出し人類の間で蔓延した。ただ恥ずかしがりやの希望だけは残ったとのこと。災厄と一緒に希望が入っていたのは、もし希望がなければあっさりと死んで楽になってしまえばいい。希望があるために人類は苦しみを長い間味わわなければいけない。よって希望も災厄のひとつである。という解釈がされています。
皆さん変だと思いませんか?
希望が残った」と単純に言えば希望があるみたいだけれど、この場合残ったのは甕の中。つまり単純に考えれば、人類に希望は行き渡らなかったのではないかと思うんです。非常に悲観主義的な解釈ですけれど。
私の思考の暴走はここでは止まりません。この解釈が正しいと別な矛盾が生じます。災厄ばかりで希望がないとすると人類などとっくに絶滅しているはずではないかと。ではなぜ人類が存在し続けているのか、それは別の希望を自ら作り出しているからではないかと思います。パンドラの箱に収められた災厄として与えられるはずだった希望ではなく、自ら作り出した希望で辛い人生でも懸命に生き延びている人々。そんなふうに考えると私はなんとなく人間がいとしく思えてくるんですが、どう思われますか?
私にとって、アルテミスがこの「自ら作り出した希望」だったのだと思います。中学生くらいのとき、私はかなり精神的に落ち込んでました。まあ今思えば思春期の一言で片付くことかもしれないけれど、自分が役に立たない無価値な人間で、人に迷惑かけて生きるよりとっとと死んだ方がましなのではと思ったものです(実は今でもその思いは残っている。)。そんなときにアルテミスを改めて見直す機会に出会いました。自分がどんなにどうしようもない人間でもがんばって生きていけばこの女神だけは微笑んでくれそうな気がしました。そうして今までなんとか生きてきました。


そこで落ち込んでいる人! あなたもアルテミス様を信じてみませんか? 大丈夫です。別に法外な御布施を集めるわけではありません。ただちょっと心の拠り所を提供できればと思うだけです。

教義
1 アルテミス様は生命の女神です。命を大切にしましょう。これは自分の命も含めてです。また、アルテミス様はあらゆる獣の女 神でもあります。弱いもの、強いもの、賢いもの、本能で生きてるもの、見栄えのいいもの、悪いもの、命はすべて平等です。人間以外の生物も大切にしましょう。
2 アルテミスは狩りの女神です。食料にするためなどでやむを得ず命を奪うことをアルテミス様は許しておられます。しかし度を越した殺生に罰を与えるのもアルテミス様です。やむを得ず奪われる命に思いを馳せることを忘れてはいけません。
3 アルテミス様は森の女神であられます。森などの生物の生存に不可欠な環境を守りましょう。
4 アルテミス様は野生の女神です。つまらない奇跡などに頼らず、自分の力で地に足のついた生き方をしましょう。

御利益(?)
1 あなたが未熟な人間であっても大丈夫。教義にもありますが、アルテミス様はどんな命でも平等に愛情を持って下さいます。一生懸命生きている限りは必ず微笑んで下さいます。他の命を尊重することを忘れなければ、思う通りに自由に生きていいのです。あなたに生きていて欲しいと思う人が少なくとも一人はいるわけです。どんなに苦しくてもがんばれるはずです。
2 アルテミス様のように全ての命に愛情を注いでみませんか? どんな命もいとおしく見えるようになると、毎日微笑みを浮かべて生活ができます。憎しみをつのらせて生きるより、はるかに幸せな日々が待っています。
3 宗教には天然痘ようなところがあります。天然痘は牛痘という別な病気にかかっている人はかかることがありません。これを利用したのが種痘です。比較的無害なこのアルテミス教に入っていれば、危ないカルトにはまることはありません(たぶん)。


みんなひかないでくれぇ(笑)。要するに「最近宗教には悪いイメージが付きまとっているが、使いようによっては人生の糧になる」ということが言いたいだけなんですから。 http://www2s.biglobe.ne.jp/~forest/pandra.htm


パンドラの箱

  もとは箱ではなく、パンドラの壷(かめ)のようです。
  かめは女性のシンボルで、古代では死と再生の意をこめて、棺おけとしても用いられたようです。
  ですがキリストの死体は箱に入れられたとかなんとか。

  中世、ギリシャ神話に熱心だったオランダ出身の人文学者エラスムスはpithos(かめ)をpyxis(小箱)と訳し、
  それ以来、壷は箱になったそうです。

  ……どうでもいいですね。

  内容においても様々な解釈があり、”実際のところ”はよく分かりません。
  ただ主題においては、
  旧約聖書創世記における人類最初の女性Eveの話と同じものである、と判断するのが正確っぽいです。

  ギリシャ神話において、パンドラは人類初の女性です。
  そして禁断の果実を食べてしまい、神の怒りに触れ、苦しい日々を送ることになった。

  ――のですが。
  パンドラの箱にはオチがつけられています。
  この解釈が実に様々です。

  ・箱の中に希望が残った。なぜなら希望は臆病だから。

  ・箱の中に希望が入っていた――それはゼウスの罠である。
   人が希望を持つことで、より多くの苦しみを得ることになったのだ。

  ・箱の中に希望が残った。だから人類は希望を持ち、辛くても生きていくことが出来た。

  ・最後の災いが飛び出す瞬間、パンドラは慌てて蓋を閉めた。
   その災いこそが”予知する力”である。
   これを得てしまったら人類は未来に希望を持てなくなっただろう。
 

  月狩においては、最後の解釈を原典に近いもの、と判断して使用します。

  前置きが長くなりました。(^^;
  寓話的要素を可能な限り排除した神話「パンドラの箱(壷)」
  ご興味がありましたら、お読みください。
 

http://rlp.obi.ne.jp/moon/funct/date.html


「あっ!」
 悲鳴を上げてパンドラは箱をしめましたが、すべての悪は、すでに人間の間に飛び散った後でした。
「どうしよう、私は、なんてことを……」
 とそのとき、箱の中から、
「私をだして……」
 という、小さな声が……。
「お前は、誰?」
「私は、希望
 それは、ゼウスの陰謀を前もって知っていたプロメテウスが、入れておいたものでした。
 それからの人間は、様々な悪に苦しめられるようになりましたが、最後まで、希望が人間の側に残り、悪を乗りこえる勇気と力を、与えることとなったのです。