科学の様々な発見は一見全ての謎を解きあかし全ての疑問に答えてくれるようだったが、ますます混沌の中をさまよい、ついに科学の頼るところは、哲学的精神になってしまった。
ドップラー効果というのは音だけにではなく、光にもある。 この測定「赤方偏移」によって他の銀河が我々の銀河から時速何百マイルもの速さで遠ざかっていることが分かる。 そして音による測定でも我々の銀河が移動してるころがわかる。 宇宙にはビックバンの爆発音がいまだにこだましている。この音は全宇宙で同時に起こった訳だから、どこでも均一になってる。つまり、音の大きいこころがあればその方向へ我々の銀河は移動してるというわけだ。 このビックバンは今は拡大の途上で言ってみれば息を吐きつつあるが、あと10ゲオたった頃、ちょっとした中断があって、今度は息を吸いこみはじめる。そしてあらゆるものが無限の密度に縮小したところで、また息を静かに吐き始める。 これが未来だとすれば、これは同時に僕らの過去でもあった。
生命の起源は地球上でしか生まれない変わり者をと思い勝ちだが、最新の証拠を見ると、地球外で生命が発生した可能性が高い。さらにその発生は特定の天体との関連は認められない。
つまり、星ではなく、とこか星間空間のうつろな場所に「宇宙のエデンの園」があったと考えられる。
生命を育む星間雲彗星
種の起源はもっとたくさんあると思う。 毎日、地球は億個の隕石と衝突している。それから100トンもの異星物質が大気圏に流入している。ほとんどは、この層で焼かれてしまうが、それでも毎日1トンが地表に辿りつく。 この隕石のに炭素質コンドライトという有機物が0.1%含まれている。 つまり地球に降り注いできた物質の0.1%は有機物だったのである。比較の為をいえば、現地球そのものの有機物含率は0.0000001%しかない。 つまり、隕石は地球などより、100万倍も有機的などこかの場所からやってきてる。 宇宙のどこかに「生命の温床」があるようだ。
じっと耳をすますと、その種を蒔く音さえ聞こえてきそうである。
酸素は毒:錆や火の例でも分かるように、酸素は反応性の高いガスである。 すばやく他の分子と結合し、全てを容赦なく一方的に酸化させていく。もともと酸素は毒なのだ、ところが、この毒がないと生きて行けない。僕らは毒ガスの中で生まれたといってもいい。実際には皮膚などの何十ものフィルターに守られ、酸素は分解されて、直接接触はされてない。 利用しているにすぎない「純好気性生物」が僕たちだ。 では「純嫌気性生物」はどう進化したのか?いまだに原始的な虫(ウジや回虫)以上に進化してない。 これも進化の不思議なところだ、もともと毒であったものすら、進化の為に取り入れ、ついには、毒に依存すらしてしまう。
人工生命:宇宙でも炭素、窒素、水素、酸素は星間ガスから用意に手にはいる。 そして、原始の地球でも、水素、アンモニア、メタンぐらいは、簡単に手にはいる。 ここに蒸留水を加えて、かき混ぜて放電を繰り返すと、初歩的な一次的生命をつくりだせる。アミノ酸だ。最近ではDNA一歩手前の核燐酸まで作れるそうだ。 こんな浅い人間の実験の中で、核燐酸が作れてしまうのだから、原始の地球で10億年の実験されるうちに偶然DNAができる可能性もあるのだろう。しかしこの偶然はきわめて低い
彗星は雪合戦のときの雪玉みたいなものだ。いづれ全部溶けてしまいあとにはなにも残さない。 しかし、彗星もどうやら、GAIAの誕生に手を貸したらしい。 彗星には30%もの有機分子が含まれている。ここからも地球に到達した物質もいくらかあるはずだ。彗星と地球が直接接触したことはないが、彗星には尻尾がある。 1910年にはこの有毒の尻尾の中を地球が通過すると発表され、誰もが窒息してしまうほどのパニックになった。実際には予測ははずれ地球にはなんの影響もなかったが、これほど地球と彗星は近い。 彗星からやってきたものの候補の一つが、空気と水だ。昔地球と彗星が接近したとき引力の強い地球が彗星からもぎ取った可能性もある。
僕らは地球がまるで宇宙船のように閉じた世界のように思っていたのではないだろうか? 地球を一つの卵に例えて話をすると黄身は大地、白身は大気だ。殻はない!! 閉じた宇宙船ではなく、高速道路のオープンカーのように宇宙の風にまともにさらされている。 インフルエンザも宇宙空間からやってくるようだ。まだ交通が発達してない頃に世界で同時にインフルエンザがおこったのはこの為だ。感染経路は成層圏の気流か? ヨーロッパの人口を半減した「黒死病」。「ペスト」は4世紀にわたってネズミを触媒として人を脅かしたが、ある日出現したときと同じように突然消え失せた。今でも成層圏から成層圏からいつ降りようかと僕らをねらってるのだろうか? インカやアステカがごく少数のヨーロッパ人に滅ぼされたのは、戦争時にはやった「天然痘」への免疫を一切もってなかった為だったらしい。
コスモス: コスモス総体は、普遍的な法則や様々な影響に従っていて驚くべき統一性を発揮している。 互いに衝突しては離れてゆく無縁の断片が、ただバラバラに集まっているというのではない。むしろリズミカルで巨大は一種の有機体、それがコスモスといっていいだろう。 僕たちは決して特別な存在ではない。心やさしい浜辺に放り出されて、根を張り始めた種の一つにすぎないのだから・・・・・・ 菌は他にも以外な所で活躍している。<バイオ修復.JXW>
DNAの最大の特色は自己複製ができることだ。前に、アミノ酸までは簡単に作れると言ったが、これは自己複製の力はない。しかしここからタンパク質になるには、きわめて希有な確率だ。 ガイドのない自然のシステムの中では偶然の組み合わせでは、永遠ほどに稀有である。 複製によって連続性がもたらせるわけだが、もし完璧であったら、最初の一個とウリふたつのレプリカで世界は埋めつくされた。ところが、コピーミスは必ずどこかにあった。 いや、なければならないといったほうがいい。というのも、進化を可能たらしめたのはこの間違いによるところが大きいからだ。しかし、細胞のCOPYミスは時には癌細胞となって自ら破壊因子になる。進化は微妙なバランスで細いロープを渡ってるようなものかもしれない。
グリセリンは長い間、液体の形のみで固体はないと思われていた。冷却しようが、加熱しようが、ガンとして液体のままで、化学者たちもあきらめていた。 ところが、ある船で、貨物であるとグリセリンが突如結晶化した。荷主は真っ青だが、化学者たちは大喜び。この樽からサンプルをとって実験室に持ち帰って調べてみたらやはり固体化した。そしてついに、樽のサンプルを混ぜないでもグリセリンの固体化に成功した。いや、それどころかむしろ簡単すぎるぐらいに固体化するようになってしまった。郵便物で固体グリセリンのサンプルが研究所に届いたとたんに、密閉容器にはいってるものまで含めて固まってしまったのだ。 この「感染経路」はいまだ不明で、「精神の種子」(Mind seed)とも呼ぶべきものが−−−化学者がグリセリンは固体化が可能であるという確信が−−−グリセリンの固体化を促したとされている。 微細化学の分野では、こうしたことは頻繁に発生するようで、昨日までだめだったことが今日から突然成功してしまうことがある。実験者の考えが実験物に影響を及ぼすのはさけられないという。
生命の進化もグリセリンみたいに、最初は、たった1粒の結晶だったのが、ある日地球上で一斉に開花したかもしれない。
現世人類は3万年前に類人猿から類猿人となった。 ところが、アフリカでとんでもないものが発見されてしまった。 10万年前の鉱山のあとだ。 そのほか、7万年前のペンダントをつけた骨がでたり、5万年前の赤い土で丁重に埋葬されたネアンデールタール人の骨もでている。ネアンデルタール人はクロマニヨン人より、頭脳が大きかった。 僕らの世界以前に明きらかに人類に到達した奴らがいた。僕らの常識は改めなければならないだろう。 他にもアフリカのスケルトンコースト(骸骨海岸)に通称ビーチウオーカーまたはなぎさ猿人、現地の呼び名で「ストランドローパー」(浜辺の散策者の意味)、学名:「ボスコボイド(ボスコ人)」というのがいた。僕はビーチウオーカーというニックネームが好きなのでこれをつかわしてもらうことにする。 ビーチウオーカーも現世人類より、脳が30%も大きかった。しかし、四股は細く、アバラも紙のように薄かった。装飾品や武器が一切発見されてないことから、好きかってに想像をめぐらすと、物を作ることより、観念を構築することに喜びを覚え、美や徳といったものを教え合う彼らの姿が目に浮かぶ。 彼らの姿を例えるとしたら、「未知との遭遇」ででてきた宇宙人にそっくりだったに違いない。 武器をもたない、BWたちは、猛獣に襲われると海に逃げ込むことを覚え、いつしか海へはいる時間が次第に長くなった。すると、息をする為に、四んばいでは都合が悪く、どうしても、2本足で立つ必要があった。いずれ、水につかってる部分の毛はなくなるから.....ほら!ほぼ今の人間になるでしょ? 事実、顔が水につかると心拍数が半分に落ちる「潜水反射」があるのも人類とクジラやアザラシぐらいだ。 生まれたばかりの子どもは必ず泳げるし、女性の髪も子どもをつなぎ止めておくのにちょうど良い。あんなに髪がのびるのは人間の女性だけだ。 水中で、ものを「ゴックン」と嚥下できるのは、ジュゴンやアザラシと人間だけだし、この咽喉を自在にあやつれつことができて初めて人はいろいろな発音をすることができ後に言語となった。雌が溺れないでセックスを楽しめるのも人間の女性ぐらいなものだ。 ここまで、書いて は!っと気がついた!!もしたしたら、この時代にBWとイルカは友達だったんじゃないか?−と。だとしたら、なんともロマンのある話じゃないか? このあたりは、また時間のあるときに考えてみることにしよう。 最後にどの人類も長い間がかけて進化したにもかかわらずあっという間に消えていってしまったことが分かってる。しかし原因はどれも今もって不明だ。 一説には黄色人種はネアンデルタールの末えいで、欧米人はクロマニヨン人の末えいという声も聞くが。
生命が誕生したのは、35億年前の海だ。その時塩分は0.8%にしかなかった。 やがて海は若干塩辛くなり3.4%になったが、僕らの体の中にはまだ、0.8%ままだ。 空気ですら激変したのに、僕らの体の中には、古代の海が永遠に生きてきる。 その時代に一斉に生命が開花したように、これは、魚でも、エビや虫でも鳥でも同じ塩分の0.8%もままだ。 おそらく0.8%の時代は生命と他のものの区別がなく混然一体としたスープのようなものだったに違いない。海そのものが一つの生命体といってもいいだろう。やがて、高まりゆく塩水から身を守るために自分の回りに 「膜」を張った部分ができた。 これが最初のDNAののりものとしての個体生物のおこりのようだ。僕らはその誕生のときからたった一人で生き、たった一人で死んで運命にあった。 海水の量に比べたら僕らのもってる海は極めて小さい。 まるで大海の中からスプーンでいっぱいすくった程度だが、永遠のいっぱいだ。
体をDNAの乗り物と言った。 これはよく考えると、私達の身も心も彼らが作った。彼らを保存することが、僕らの究極目的ともいえる。鶏は次の卵を作る手段にすぎない。猿は木の上で保存する乗り物にすぎない。魚は水の中で、保存するタクシーにすぎない。 遺伝子は、ある意味で個人の存在を全く認めていない節がある。 冗談じゃない。僕らは占領されているのか? しかし、この証拠は強力だ、僕らは死ぬが、遺伝子は死なない。老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。進化と言う名のもとに古い乗り物は乗り捨てられ腐っていくが、遺伝子そのものは部品を交換してまた新しい乗り物にのって先にいく。 しかし、それでいいだろう。僕らは死ぬかわりに自由な意志を与えられたのだから。 昔から人は、永遠の生命を求めた。しかしいつの世でも出される結論は一つだ。「限りある命だかた尊い」、そこに愛ややさしさ、文明や美も生まれるのだと。
理論的には遺伝子は50億年以上存在できるという、DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる才能に限界があるときだ。 遺伝子を意識のあるのと考えるられない。彼らには我々についての知識も、彼ら相互の知識もない。進化に関与してる自覚もなければ、将来の発展の為に計画を立てたり、夢を見たりすることもない。ただ存在するだけなのだ。
「猫の中にときどきものすごく頭のいい猫がいる。調べてみると遺伝子がほどんど猿に近くなっていた。」 この報告は僕の生命に対する考えかたをいっぺんした。猫に何者かが猿の遺伝子を運んだのだ。犯人はウイルスだった。そう、病気をうつすあのウイルスだ。
相互利益の為に共に生きることをシンピオ−シスと言われる。進化上の劇的な飛躍を有無には最良の方法である。 すぐに目に飛び込んでくる緑の植物すら、葉緑体と共生しており、これがいないと植物足り得ないし緑色にもなれない。 地衣類とよばれる天然合成生物がいる。藻類と菌類が単独では生きていけず、合体した一つの共生体で、ある意味では、幻想上の存在であるともいえる。 これは、摂氏マイナス183度の液体酸素に入れられても、6年間真空状態におかれても生き延びる。単独の生命ではとうてい不可能なことをやってのける力がそこにはある。
プラトンは理性と判断は議論と対話によって成立するものだとした。議論をするには相手が必要なわけだから、精神は二分されていることになる。 フロイトが二つの精神−意識と無意識−という画期的発見の二〇〇〇年前から予見していたのである。
雄と雌の世界では、普通雄は雌を引きつけるため大変ハデで積極的なのものだ。 孔雀など最たるもので、あんなにハデにしてるが故、ほかの動物に発見されやすく、短命に終わろうとも、雌を求めて羽を広げる。 遺伝子の基本命令としては、雄に対しては「できるだけ多く雌と交わりなさい。そして、子どもができたら、次の雌と交わりなさい」雌に対しては「できるだけ優秀な雄と交わりなさい、ほかの雌と交わるのはすべからく妨害しなさい」となる。 しかし、例外的なものもなかにはいる。
1:シギダチョウは、出産こそ雌がするが、あとの家事分担はすべて平等でおこなう。 だから、この鳥は雄も雌もほぼ同じ大きさで、色も同じようにくすんだ安全ないろとなっている。
2:タツノオトシゴでは、性の役割が逆転している。雄が卵をかえすための袋をもち「妊娠」「出産」し、子育てまでやってしまう。 したがって、ここでは、雌のほうが色鮮やかで、積極的だ。
3:平等のあり方は、動物によって違う。たとえば、哺乳類が人間をそれ以外とする見方があるが、それと同じ見方をすると鳥もコヤツククリとそれ以外と分けられる。 性の存在が基本的に雄をハデにしてることはすでに述べたが、その全部は自分の体を飾るといった方法にでる。しかしコヤツクリは違う。外観は雌雄同色だが雄は、ハデは家を建てて雌の迎えるのだ。自然界でもっとも強力な力のひとつである性的な選択をめぐる力が外在化されているわけである。家は事実上2次的な性的特徴を表す外在化した着衣となる。かくてこの鳥の雄は安全と雌の両方をてにいれることができたのだ。問題は家をつくるといった行動の結果について自覚をもっているかだが.....
4:そして人間・・・・・・・・・?? 生物学的に考えると人間の恋愛は4年もすれば子育ての使命をはたし、分かれても支障ないそうだ。しかし結婚してからも実に40年〜50年ぐらいも一緒に暮らす人もいる。 これほど長い期間結びついていられるのは、なにゆえか? この話はまたの機会にゆずるとしよう。
粘菌というのをご存じだろうか?アメーバーのように微生物の集合体であるにも関わらず、きわめて統率のとれた行動をする。問題は個々の細胞がどうやって通信しているかだ。温度なのか?免疫なのか?いずれにしての何らかの通信システムがあるのは明らかだ。 無脊椎動物は同種の生物の細胞や組織を無条件に受け入れるモノと最近まで信じられていた。しかしサンゴのような単純な群体動物でも、自己認識をもっていることが分かっており、更に共同体意識を持っていることも分かった。 例えば、サンゴの一部を切り取って同じ群体同士に移植するとすぐに受け入れるのだが、別の群体のサンゴに移植しようとしても互いに触れ合う部分に瘢痕組織のような、死んだ細胞の防壁を作ってお互いに相手をよせつけない。 もっと、興味深いことは一方が相手より大きい場合は、小さい方だけ崩壊する。しかし、それは大きい細胞群に殺されるわけではなく、いわば自殺をするのである。 小さい方の自己消滅溶解メカニズムが働くのだ。小さい方は追い出されたり、勝負に負けたり、圧倒されるのではなく、自ら身を引くにすぎない。生物の世界にこのような現象が存在することを知ったところで、必ずしも安心するわけではないが、少なくとも愉快であり、驚きである。 逆に自然界の唯一のタブーである近親相姦も自己認識は発達して始めて完成したシステムだ。ユリななどは、自分自身の花柱であることに気がつくとすぐに撤退して自己消滅する。
アリはその集団自体を一つの生命体と考えたほうがいいのだろう。
進化は間違いを犯す。我々以前にその何百倍もの種が過去に死滅している。化石標本は、偉大なる造物主に捨てられた、種のくず箱である。 種はたとえどんなにうまく適応しているようでも瞬時も休むことができない。 ここじゃ、いくら走っても同じところにいられるのがやっとなのだ。
世界が客観的に存在すると決めつけたときに、人は神に変わって目に見えない創造行為を行い、世界に”完全”という烙印を押したのである。 創造とは普通神という創造主のみができるものだと思われているが、そのように考えることは 、生命や人間の精神を予め決定された既知の規則に従って無自覚に動き続ける。細部にいたるまで計算し尽くされた機械として見ることになる。 そのことに人は気づいてない。つめたい時計仕掛けの工場のような世界には人や世界や神のドラマはない。 我々は自分の気がついたものにしか反応しない傾向がある。自分で気づこうとしたものしか。結局のところ、本当にこの目で見、この耳で聞いているわけではないからだ。文化は我々の学んだように世界が見えてくるまで、現実の方をねじ曲げるていたにすぎない。 プリズムを使ったニュートンの実験以降人の目に虹は七色に見え始めたのだ。 ところが、原始民族には四色の色しか見ない。名の付いてないもの馴染みの薄いものを体験すると言うことは容易ではない。 これとは逆にエスキモーには最低七種類のもの雪がある。 我々が普通意識だと思っているのは壮大な幻想の状態なのである。 だからときどき我々の原型的怪物がヒョイと顔を出してもおかしくない。むしろ不思議なのはなぜもっとたびたび現れないのかということだ。 なぜ我々は本当の姿を知ることを禁じられたままでいなければならないのか? 生命潮流の抑圧された力を解放し、我々の意識のために利用する可能性と、そうすることが果たして得策かどうか健闘したいのである。
いろいろな焦点距離を持った望遠レンズを心の中で使うことができ、心に浮かんだ像に焦点を合わせてズームインする事ができるのだ。 我々の個人的無意識には途方もない量の情報が含まれている。 まだ意識が始まったばかりの自分の身を守るには危ういほどの自己同一性しか持たない生物にとってこの種の保護作用が必要不可欠であった時期も、進化の途上にはあったに違いない。 しかし我々にはもはや、それほど堅固な防護手段はいらない。防壁はだんだん半透明になり、ますます多くの情報を通過させている。 私の考えでは、この段階まで、しかしつい最近、到達したのは人間だけである。 テレパシーのような能力は我々にとってばかりでなく全生物にとっても新しいものだと思う。
初期の個人的無意識は一種のごみ捨て場であったのだろう。 もし我々が周囲のことに逐一注意を払っていなければならないとしたら、大切なことは一つも結びつけられずに戸惑い続けていただろう。 考えるという能力は、比較的低いレベルで分析された予備知識の背景があって始めて発揮できる。シーンとした森の中で「ポキッ」と小枝のおれた音がしたときだけそれを意識の表面に引張りあげる。 車の運転やスポーツもこの二段構えのシステムにより、うまく行えるのだ。 あまりに基本的なことを故意にいしきすることによって結果的にはかえって混乱させることになるからだ。 音楽的才能といのも無意識の産物であるのに違いない。 意識を自発的な意志により低下させること、意識的にトランス状態を採用することは、無意識の才能を生かす最良の手段だ。
ヒューストン大学の研究によれば、電気ショックで暗闇を恐れるように訓練したラットの脳からスコトフォビンという物質と抽出し正常なマウスに注射したところ暗闇を恐れるようになったという報告がある。 記憶が注射で移植できるのだ。
生命と心とは、永遠のとらえられないものに違いない。その起源は有機的進化にあったとしても、それらは潮のような実質性しか持たない。海水のサンプルを数多く採取したところで、潮について何かが分かるわけではない。 どんなに生物を解剖し、原子以下の構成要素にまで分析してみても、回答は得られない。 生命とはパターンであり、運動であり、物質のシコペーションである。コンテンジェンシーの旋律に体位して生まれた、すばらしいほど理性に反した、希有なものである。
大人になると、常識に捕らわれ、子供のような明晰な知覚力を曇らせる。宇宙の卵のヒビから真理を垣間みて、真理に手が届きそうな瞬間が確かにあるはずだ。本書を生きた潮の力を未だに感じることができ、どこまで運ばれて行こうと、その流れに乗って行く勇気をもつ者たちすべてに捧げたい。