物の進化
人類の三大発明は、言語、管理された火、そして車輪という。最近では言語はイルカも持っているらしいことが解明されつつ、火そのものは自然のもので発明でもなんでもない。車輪そのものもメソポタミヤでただ儀式の道具として、使われ続けられていた。車輪が運搬の道具として使われ始めたのはそれから一千年もたってからだ。アステカでも車輪の原理を十分理解し、完璧に動作する車軸と車輪を持ちながら、子供の遊び道具以上にはならなかった。事物の発達にはどうやら実用性と機会だけではない別の力が作用しているらしい。
私達のまわりの道具はどれ一つとっても考えてみればおもしろい。電話は耳の延長、今では鳥の翼すら得ている。その中でもひときわおもしろいのがコンピューターだろう。一号機の誕生は一九四六年重さ三〇トンで、真空管を一万八千個使用し、五〇人がかりで運用していた。処理能力は十秒あたり、一ビットしかなかった。ところが私が今文書を書いているこのパソコンですら今や100メガビットも処理できる。二〇年で一千万倍の能力を備えている。そこでこんな事をいう人もいる。「人間の処理能力は毎秒一兆ビット、今の速度でCPUが進化すれば、二〇一〇年には、CPUは人間の能力に追いつくだろう。さらにその二〇年後にはアンドロイドすら今のパソコンの値段で買えるだろう」−と。アメリカの防衛網をコントロールしている化け物のような巨大コンピューターは公式に「精神病」の診断が下っていていささか人間めいてきた報道もある。コンピューターのなかで生きる人工生命体の研究も盛んだ。スティープホーキングはコンピュータウイルスが自己増殖するという生命の定義を唯一満足させる「人類が作り出した唯一の生命体だ」としている。
しかしコンピューターがどんな処理をしようとも私にはただのハンドアックス(原始の石の手斧)の変形にしか思えない。どんな計算すらもできないが、花一輪のほうがはるかに、私達の愛情を受けるにふさわしい。
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