<見る>

 私達は目で物を見ているのではない。脳で見ているのである。「心の目」といってもいいだろう。よく「見れば納得する。」「この目でみるまではとても信じなかっただろう。」などというが、視覚の謎が、解ける時こういう言い方をするだろう「本当だと信じてなかったら、とても見えなかっただろう。」−と。

 おもしろい逸話がある。かのダーウィンがホーン岬に姿を現したとき、原住民は船になかなか反応をしなかった。まるで目に入らないようなふるまいしかしないのだ。原住民の一人を船に連れてきて触らせて、彼を陸に戻し、皆に知らせたとき、原住民達の目にいっせいに船が見えるようになった。船が想像を絶する大きさなので、見えなかったというのだ。

こうしたことは科学的実験でも証明されている。二匹の猫をそれぞれ縦縞ばかりの部屋と横縞ばかりの部屋で育て、やがて成長した猫を部屋から出しても縦縞猿は、横線を認識できずテーブルから足を踏み外し、横縞猫は、縦線を認識できずテーブルの足に額からぶつかる。

このことは人の成長にも同じことが言える。本人が生まれて間もないときに見たものに大きく依存されるのだ。例えば生まれつき手足が欠損している子どもは視覚的奥行きを掴むのに苦労する。赤ん坊はいきなりものを見るのではなく、見ることを学ぶといってもいいのだろう。

このように私達の頭脳コンピューターは事物を将来私達にとって意味をなすようプログラムされるが、これは純粋に過去の経験だけを基礎にして行われる。そして私達はそれぞれ別個の現実像を受けいれ、当然ながら違った種類の結論に達しているといってよいだろう。

よく「見れば納得する」「この目でみるまではとても信じなかっただろう」などというが、視覚の謎が、解ける時こういう言い方をするだろう「本当だと信じてなかったら、とても見えなかっただろう」−と。

気になることと言えば、今、私達の世界は、恐ろしいほど視覚に頼りすぎるようになっていることだ。頼りすぎた結果、電話をする時ですら、微笑を浮かべたり、不機嫌な顔になる。しまいには、眼鏡をしないと、電話すらできなくなるのだろう。自分の人生もページに書かれた言葉のように人生を上から下へ、あるいは左から右へ文字のように読みとっていく。音楽も譜面がないと聞こえなくなるかもしれない。

 サイトよりインサイトを充実させることが今重要なのだ。

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