*自由の代償 

しかしこの自由には自由の程度に比例した代償がある。安定をその分失うということである。自由 (独立)と安定(俵存)とは対立概念だからである。

海の底に張り付いていた方が楽だ。泳ぎ回ることができればそれだけ自由にはなるが、その分不安定になる。水からでると体が重い。陸に上がって 自由になった分だけ、水の支えを失ったからである。空を飛ぷのは確かに生活空間を更に広げたこと になるが、支えが全くない。絶えず自分で羽ばたかなければ墜落してしまう。

自由に独立するということは、保護や支えから離れ、その分だけ、不安定を覚悟することを意味する。  しかし、もしそうなら第三の自由化において我々が物質そのものから全く自由になった場合、極度に不安定になるのではないか。

確かに物質の支えはなくなるだろう。実際、物質的楽しみに気がまぎ れている時には、人は普通心理的に安定している。しかし、第三の自由化の領域にはいると、物質的世界も、自分の体も、果ては自分自身すらも、頼りない存在であるという真理を直感し、不安定になることがある。場合によっては一時ノイローゼ的になることすらあるだろう。

しかしその時、悟るのは「実は無である自分の存在の根底そのものを<有そのものであり、生命その のである存在>が隅々まで満たし支えている」という現実である。

進化の最終段階で純粋な生命の世界に突入するということは、純粋生命そのものに突入する事だからである。第三の自由化において 進化した先人たちが、それを証言している。そこから広がる心の大いなる平安と充実感は、誰も、そして何も、その人から奪うことはできないといわれている。即ち支えがより根元的な次元に移るわけである。

しかし、このことは非常に重要なことを教えてくれる。人が純粋に自由のために自由を求めることは、一切の支えを失い絶対的不安に陥るということである。純粋に自由になることほど、危ろしいことはない。何らの支えもなく<自分がどんなにでもなり得ること>を直感するからである。

我々はしばしば、自由のために自由を求めているが、それが、根本的に迷いであり誤りであることが、あらためて理解されるのであろう。

 

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