思想のためのインターネット

 

1920年に今のインターネットに相当するようなインタラクティブなネットワーク・メディアがあった。

それ機械の通信方法は無線を採用していた。

その構想は地球全体を覆いつくし、リアルタイムに、インタラクティブに、誰もが情報の発信者となり、受信者となり、民主主義社会を切り開くものというものであった。

この頃はまだエーテルの存在が信じられていて、無線というのは神秘的なエーテル空間を通じてやってくる不思議の通信機であったのである。

しかし、実際には発信者より、受信者のほうが圧倒的に多く、この装置から、発信装置を取り外した安い機械でも売れることに気が付いたメーカー群に市場を形成されてしまったのである。

この機械は今では当時の面影はなく、受信機能だけを与えられ一般に「ラジオ」と呼ばれている。

やがて今日のインターネットに期待されるようなインタラクティブの発展を信じていた能動的なメディアの表現者は徐々に消失し、受動的な一団が急速に増えていった。視聴者の誕生である。

テレビについてはどうだろうか?テレビが登場したとき、同様な夢が掲示され、電話業界、ラジオ業界、そして映画業界が、その仕様の派遣を握ろうとした経緯がある。この時代に勝利したのが、ラジオ業界であり、やがてテレビも「画面付きラジオ」として、発信機能のない通信機としての姿を与えられた。

かくてTVは暖炉の変わりに家庭空間の統合機能をはたし、かつ、地域を同様に統合していった。

*新しい理論は個人のペン先からは生まれない。言語の生成のように極めて複雑な情報チャネルと過程を経て醸造されるものである。そうした意味で、たった一人の発見をマスメディアで一方的にばらまいても、コミュニケーションの「場」とはならないのである。そういういみで、ネットワークとペンは同じ歴史的文脈にない。

PCはそのブラックボックス性が嫌われたが、ネットワークはローカル共同体の打破という、忌み嫌われる特質を持っているのである。

本人の意志に関わらずネットワーカーは創造的プロセスに参加しているのである。

*科学をする心を養わない

教育は歴史的意味を失っている。特定ローカリティーの特定セマンティックの強制的吹き込みにすぎない。

しかし、実際に円滑な社会を実現するためには、隣は○思想、又その隣は、×主義、またまたその隣は△教というのはやりにく。そのためには既存の○×△派を止め、ネットワーカーそのものにならなければならない。

とにかく我々はまだ進化の途上にいるという謙虚な気持ちをわすれてはならないのである。例外的な世界観を排除するのは、本当に不要なのか、未知の進化の兆しなのかは、判断不可能なのである。

教育は非コミュニケーションの典型である。教育はそもそもいじめであって、いじめ事件はたまたまの事件ではなく、教育の持っている本質である。

「コンピューターがこれからは英語より大切になるかもかもしれない」とよくいうが、国語のように普遍的であるといったほうがよいだろう。

ネットワークが我々の言語活動どれかけ影響をもたらすかは計り知れない。示唆などとい軽い接触では済まないところにきている。

人間が今日のようなコミュニケーション不能種から有能種に進化をした意義は野蛮からの脱却にある。

ここを相対的に捕らえられれば、
たとえば科学というコミュニケーションでは科学者は科学者としてしか考えないことが許されている。おめでたい観測者としての立場を決め込み、科学者は科学を反省をしなくていいのである。

真のグローバルは、一人の世界観で把握したものではありえない。たくさん人間の活動プロセスから動的に創造されるものなのである。

コミュニケーション学には目的がある。世界の人々がお互いに理解をしめし戦争がおこらなくすること。飢えと貧困からの人権的悲惨、じこ中心的科学への根本的理論の整備を目標とする。
貨幣信仰は世界最大の普遍的宗教であり、貨幣はそのお守りであり、御札である。

ネットワークは全知学をカバーする新種の知なのである。
「自然を守る会」は着眼が歪んでいる、「自然に守られる会」

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「思想のためのインターネット」 ラジカルなコンピューター2 岩谷宏 1996年 ジャストシステム

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