定義不能な「生命」の疑問は、「生」と「死」の境界線もひく事をできなくしている。

生と死の分岐点は「ノーリターン・ポイント」にあるが、このポイントは未だに探せない。

散逸構造論的に解釈すれば、ゆらぎによりエネルギーが分岐点を死のほうに向かうという言い方になる。

それ故「脳死」も取り扱われるたびにいろいろな論争をおこし、それぞれの地域の風習や宗教などによる生命観に大きく左右される。これは正しくもある。

そもそも「脳死」がクローズアップされる背景には、「臓器移植」の動きが背景にある。

細胞は生きたままの臓器ではないと移植できない為、脳死者を早急に死体扱いと決定しなければならないといった科学的なるものが根底に流れる。

臓器移植が美談として報道されるが、人間の欲望の結果であることを忘れてはならない。年に数十万人も殺傷している自動車も利便性の前に誰にも平等な死亡率のUPとして受け入れられている。欲望の前にはヒューマニズムなどひとたまりもない。

もともと何をもって生とし、なにともって死とするかは科学が決定するのではなく、元々個人が自由に決定するものである。

それ故、死をめぐる扱いは未だ宗教に頼っている部分が多い。ここから抜け出す為には、まず墓をなくし、灰を海や山に蒔き、自然と一体となることから始めたらどうだろう。

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