HOME
- 1 -
=表象文化研究(‘02)=(TV)
− 文化と芸術表象−
〔主任講師: 渡邊 守章(放送大学名誉教授・演出家)〕
〔主任講師: 渡辺 保(放送大学教授)〕
〔主任講師: 淺田 彰(京都大学助教授)〕
全体のねらい
芸術は、表象のシステムとしての文化の中にあって、その固有の価値について意識的であり、またそうした価値の創出・
伝達・受容と、更にはそれを伝承するとともに破壊もする営為として、文化の根幹をなす特権的な表象である。それは、文
化をその多様な層において照らし出す<鏡>として機能するから、芸術表象の分析・研究は、文化の総合的な分析・研究にお
いて、最も重要な場の一つを構成する。表象文化研究は、表象としての芸術を、その創造・伝達・受容の多面的な局面にお
いて研究しようとするものだが、ここでは、政治制度や宗教的儀礼から日常生活に至る人間の営みに浸透している<文化>
を顕在化させる<装置>としての芸術に焦点を定めて、その構造と作用、それらを可能にする作業の動態を分析する。
回 テーマ 内 容
執筆担当
講師名
(所属・職名)
放送担当
講師名
(所属・職名)
1 表象とは
〜理論的フレ−ム
「表象」(representation[英語]、représentation[仏語]、Vorstellung
[独語])という考え方について。「再=現前化」と「再現=
代行=表象」と「舞台上演」。何故、表象か? 表象によっ
て何が見えてくるか。「表象」についての思考の歴史的系譜。
カント、ショーペンハウワー、ニーチェ。ミシェル・フーコ
ーの視座(『言葉と物』における「表象の歴史」から、『監
獄の誕生』以降の「表象装置」の分析へ)。表象の生成・伝
達・受容の関係構造における芸術。「視線」の移動。「表象
装置」の具体例(教会、劇場、美術館、万国博覧会、百貨店、
オリンピック競技、ベンヤミンと複製芸術論、バルトの写真
論)。「引用のゲーム」と「間・テクスト性」(歌舞伎にお
ける変形ゲーム)。「踊る身体」の表象。表象の廃絶(アル
トー)。
渡邊 守章
(放送大学名
誉教授・演出
家)
渡邊 守章
(放送大学名
誉教授・演出
家)
渡辺 保
(放送大学教
授)
浅田 彰
(京都大学助
教授)
2 表象装置T
〜都市と記念碑
「意味を付与されたイメージ」としての表象。建築の例(機
能と意味)を都市とその記念碑的建造物によって分析する。
「時計台」の系譜学。「安田砦」と「オデオン座フォーラム」
の対比(記憶の活性化)。都市と時計台。時間の支配のトポ
ス=場。近代の時間=駅の時計台。日本における「塔」の記
憶。近代の時計台(アカデミズムと遊廓と)。ヨーロッパの
都市における記念碑の表象(国民議会の例)。日本の国会議
事堂の表象。エッフェル塔からの眺め。パリの都市計画の構
造と意味。アルケ=スナン王立製塩所に見る「中心」の意味
(啓蒙思想による「パノプティコン」あるいは「一望監視方
式」の発明)。「表象装置」という基本的な発想。
同 上 渡邊 守章
3 表象装置U
〜祝祭空間の演出
表象が創出され共有される特権的な時空=場としての祝
祭。カトリックの教会堂の例(ゴティックとバロックにおけ
る世界像の表象としての教会建築)。バロック教会建築の「演
劇性」。世俗的祝祭の典型としての劇場空間。「踊る王」の
祝祭装置(宮廷バレエ、ルイ十四世御成婚パレード、ヴェル
サイユ宮の『魔法の島の楽しみ』)。「葬儀」の劇場。
同 上 同 上
4 祝祭装置の近代T
「共和国」の祝祭。劇場芸術の黄金時代であった19 世紀ヨ
ーロッパにおける「劇場」という表象装置。そこに設計され
た関係構造と、都市において劇場が醸成した虚構の作用の分
析。19 世紀の国際都市パリに照準を定め、台詞劇、オペラ、
オペレッタ、バレエなど、19 世紀を代表するジャンルについ
て、劇場による表象とその快楽の特性を分析する。
同 上 同 上
- 2 -
回 テーマ 内 容
執筆担当
講師名
(所属・職名)
放送担当
講師名
(所属・職名)
5 祝祭装置の近代U
ヨーロッパ19 世紀の後半は、劇場という表象装置が、祝祭
装置としてはすでに機能不全に陥り始めた時代である。その
ような劇場芸術について、それを「キマイラ=存在不可能な
怪獣」に譬えたのは、世紀末の詩人ステファヌ・マラルメで
あった。同時代の劇場芸術の破産とその根拠を暴きつつ、来
るべき群衆的祝祭演劇の設計図を素描するマラルメ。「韻文
朗読オラトリオ」「バレエ」「ワーグナーの神話的楽劇」「カ
トリックのミサ」をパラダイムの軸として設定しつつ、サー
カスや寄席の芸の「直接的な演劇的力」を問い直すその演劇
論を中心に、19 世紀ヨーロッパが20 世紀へと遺贈した「表象
についての基底的思考」を跡づける。
渡邊 守章 渡邊 守章
6
美術館
あるいは記憶の装
置
教会や劇場のように、19 世紀近代以前から存在していた表
象=祝祭装置に対して「美術館」は歴然とフランス大革命の
落とし子である。ただ、その出自によって、王侯貴族のコレ
クションを展示する「宮殿型美術館」(例えばローマのヴィ
ラ・ボルゲーゼやドリア・パンフィリ)の「充満した私的空
間」に対して、大革命以前から計画されたとはいえ、やはり
『百科全書』とフランス大革命を受けて成立する芸術家のた
めの「教育装置」でもあり、全国民的な「記憶の装置」でも
あるルーヴル美術館とを対比して見る。「文化的記憶装置」
としての美術館の使命は近代・現代の芸術にも及ぶのであり、
ニューヨーク近代美術館、パリ国立ポンピドゥーセンター、
またルーヴルに対して19 世紀美術館としての設定されたオル
セー美術館、ロンドンにおけるナショナル・ギャラリーと二
つの「テイト・ギャラリー」の「棲み分け」の例を分析する。
浅田 彰
(京都大学助
教授)
渡邊 守章
淺田 彰
7
万国博覧会
あるいは展示の政
治学
「万国博覧会」もフランス革命の所産の一つといえるが、
それは当初から、単に全国規模の物産展であったのではなく、
パフォーマンスを含んだ文化的イべントとしての特性を備え
ていた。しかも、19 世紀後半に至って急速に大規模化するこ
の「展示空間」は、まさに19 世紀ヨーロッパ近代が発明した
「メガ・イべント」であり、ヨーロッパ近代における表象装
置のベクトルをよく理解させる仕掛けである。「産業の展示」
「帝国の展示」「見せ物(パフォーマンス)」という3つの
ベクトルに貫かれた万国博覧会の系譜と推移を、表象装置と
いう観点から分析するが、1867 年パリ万博の展示空間の構造
と、エッフェル塔によって記憶されている1889 年フランス大
革命100 周年記念パリ万博の文化的な発信力が焦点となる。
ベンヤミンに倣って言うならば、万国博の群衆は「遊歩する
群衆」であったが、20 世紀になって、群衆の視線を再び客席
に縛りつけつつ、なおかつ万国博に匹敵しうるメガ・イヴェ
ントとして成立するのが、近代オリンピック競技にほかなら
ない。それは「身体への視線の集中」という観点からも、20
世紀の表象装置の地平を画している。
渡邊 守章 渡邊 守章
8 表象とメデイア
〜複製芸術論
表象を産出し伝達し共有させる「装置」に研究の焦点を当
てれば、表象が「メディア」と如何に関わり、自らを変容・
変質させつつメディアそのものをも変化させていくことに注
目しなければならない。ベンヤミンの『複製芸術論』という
20 世紀の表象文化研究に基本的な命題(例えば「礼拝的価値」
と「展示的価値」の対比や、「アウラ」とその喪失)を検討
しつつ、1960 年代におけるマクルーハンのメディア論、そし
て近年のレジス・ドブレ等による「メディオロジー(メディ
ア学)」まで、表象やイメージとメディアが切り結ぶ局面に
ついての言説を、歴史的に検証する。
淺田 彰
渡邊 守章
淺田 彰
- 3 -
回 テーマ 内 容
執筆担当
講師名
(所属・職名)
放送担当
講師名
(所属・職名)
9 表象とその臨界
ミシェル・フーコーの名著『言葉と物』が大胆に立てた時
代区分によれば、ヨーロッパ17 世紀から18 世紀にかけての
「古典主義の時代」は、分節言語を特権的な表象のシステム
として確立させた時代であり、それに対して、18 世紀末から
19 世紀にかけて生起する大きな断絶は、表象不可能な力の侵
入のまえに古典主義的な表象の思考そのものが揺らぎだす時
代だとされる。それは言い換えれば、19 世紀から20 世紀を通
じて、表象を思考する者は、常に表象の不可能性の出現と対
峙しつつそれを行わざるを得ないことを意味する。特に、20
世紀中葉の決定的な事件として、ナチによるユダヤ民族の大
量虐殺があり、それは例えばワシントンの「ホロコースト博
物館」の展示に対して、展示そのものの不可能性の上に立つ
「ベルリン・ユダヤ美術館」のような形でも現れている。こ
の人類史上の深いトラウマと同時代に、アントナン・アルト
ーのような「演劇の幻視者」が、全ての分節言語の廃絶の上
に、「肉体の演劇」を立てようとしたことは、表象とその臨
界を思考する上で、やはり避けては通れないだろう。やや視
点を変えれば、西洋的な表象の発想にとっては臨界として立
ち現れる、ある種の東洋的な表象の世界が、表象の思考の地
平を画すのも当然かもしれない。マラルメの「余白」の強度
の思考や実践であった『賽の一振り』が、東洋の水墨画に通
じるような地平である。
淺田 彰
渡邊 守章
淺田 彰
10 テクストT
〜神話装置
文学的テクストを、19 世紀近代が想定したように、「偉大
な創造的主観性の産出物」として、いわば閉ざされた系と考
えるのではなく、言語による表象を作り・伝達=流通させ、
それを受容し、更にはそれを記憶として蓄積し、再び別の形
で活用するという、「開かれたテクスト」として捉えなおす。
18 世紀から19 世紀の江戸時代の日本で、「御霊=敵討ち神話」
として広く深く機能した「曽我物語」を例に、鎌倉時代にお
きた「敵討ち」の物語が、江戸の文化の内部で、どのように
創造的な変容を遂げたかを分析する。その際、吉原という遊
廓が、どのような文化装置として機能したかを理解すること
は、決定的に重要である。従って、ここでは、『籠釣瓶花街
酔醒[かごつるべさとのえいざめ]』と『寿曽我対面[ことぶき
そがのたいめん]』ならびに歌舞伎十八番『助六由縁江戸桜[す
けろくゆかりのえどざくら]』によって、江戸時代の二大悪所
場であった芝居町と遊廓が神話テクストをどのように変形し
て舞台を成立させたかを分析する。
渡邊 守章
渡邊 守章
渡辺 保
11
テクストU
〜間[かん]−テクス
ト性
日本の伝統詩歌には、「本歌取り」という技法がある。そ
れは単に古典のなかに典拠をもつことの顕示にはとどまら
ず、「本説=典拠」と実際の言語パフォーマンスとの関係の
ゲームであった。単なる出典や影響関係の研究ではなく、テ
クストとテクストの間で演じられる「引用のゲーム」という
局面に注目する必要がある。それは文学テクストと一般に芸
術作品の受容論の地平を開くからだ。ここでも日本の江戸時
代に例を取り、歴史上の事件であった「赤穂事件」を、『太
平記』の「世界」に置き直すことで如何にして『仮名手本忠
臣蔵』が成立したか、また、その『仮名手本忠臣蔵』を本説
にして、如何に『東海道四谷怪談』が作られたかを分析する。
もう一つに事例としては、八百屋お七の物語が井原西鶴の『好
色五人女』から河竹黙阿彌の『三人吉三』へと変容したプロ
セスを論じる。
同 上 同 上
- 4 -
回 テーマ 内 容
執筆担当
講師名
(所属・職名)
放送担当
講師名
(所属・職名)
12 身体T
〜舞踊と言説
表象としての芸術を考える際に、「身体」は特権的なトポ
ス(話題=場)を提供する。ヨーロッパ19 世紀の思考の内部
では、捨象されることが多かった「身体」は、20 世紀後半の
思想の一つの重要な核をなしている。12 回と13 回で取り上げ
る「身体」は、舞台に現れる身体である。先ずは日本の伝統
演劇のなかから、能における「舞」と、「舞う身体」につい
ての世阿弥の言説を分析し、『風姿花伝』から『二曲三体人
形図』『花鏡』『三道』における世阿弥の思考を検討する。
次いで、歌舞伎における所作事の発想とその構造・作用、主
として歌の詞章と踊りの「振り」との関係に焦点を当てて分
析する。
渡邊 守章
渡邊 守章
渡辺 保
13 身体U
〜虚構の身体
日本の舞台芸術には、「語り物」の構造が極めて強く、か
つ多くの舞台表象を決している。ヨーロッパ的に言えば、「語
り手」と「演技者」が分裂するわけだが、そうすることで、
能も人形浄瑠璃も、また人形浄瑠璃を写した歌舞伎も、それ
ぞれに固有かつ有効な舞台表象を作り上げてきた。その際、
「演じる者」のステータスは、単にヨーロッパ近代の俳優論
のように、演技者と役を完全に重なり合うものとしては発想
できない。個人としての俳優と、彼が演じる役との間に、も
う一つの、いわば「前=表現的」レベルを想定しなければな
らない。それを「虚構の身体」と呼ぶが、「語り物構造」と
「虚構の身体」との関係を、能と歌舞伎の演技によって見る。
能の「仕舞い」や日本舞踊の「素踊り」は、この問題を立て、
またそれを解く上で、重要なヒントを提供してくれる。
同 上 同 上
14 イメ−ジのドラマ
ツルギ−
表象の最も分かりやすい局面は、イメージであり、意味を
付与されたイメージである。その意味で、「映像論」は不可
欠なのだが、映画映像、特に劇映画の映像を放送教材として
用いることは、種々の制約から極めて困難である。そこで、
「イメージ」の生成とその受容の政治・経済学とでも呼ぶべ
き主題をもつジャン・ジュネの戯曲『バルコン』の舞台(1956
年作)を引用しつつ、現代社会とその文化における「イメー
ジ」の演劇的・劇的作用について考える。ジュネの『バルコ
ン』は、毎夜、客が自分の変身願望を満足させるべく訪れる
「幻想館」と呼ばれる高級娼家を舞台に、権力への意思を性
的表象へとシフトした「性と権力のごっこ芝居」だが、この
娼家の女主人マダム・イルマと、その情夫でありかつこの店
のパトロンでもある警視総監が、革命を挫折させて「英雄の
イメージ」を手に入れるという、「イメージの権力奪取」を
主題とする。その意味では、革命とその挫折の世紀と呼ばれ
た20 世紀の総括とも受け取ることが可能な挑発的な劇作であ
るが、イメージのメタシアターとしてのその構造と作用に焦
点を当てて分析する。なおこの舞台は演劇制作「空中庭園」
が世田谷のパブリック・シアターの協賛を得て、渡邊守章訳・
演出、篠井英介主演で、2001 年に上演したものである。
同 上 渡邊 守章
15 表象と言説
〜視線・技法・知
最終回は、表象文化研究の基本的な問題の系の配置を示し
つつ、全体の総括を行い、この授業科目では取り上げなかっ
たが、問題の系を構成し得る課題について、主任講師三人で
討議する。特に、表象としての芸術を論じる際に、理論的言
説化の作業のもつ意味について論じる。
同 上
渡邊 守章
渡辺 保
浅田 彰