垂仁天皇二八年といいますから、千八百年近くも前のことになりましょうか――。
天皇の弟君のヤマトヒコノミコトがおなくなりになりました。おそば近くにお仕えしていら人たちが、あの世までもお供するため、生きながらご陵に埋められました。
その悲しい泣き声やうめき声が、いく日もいく日も聞かれました。
天皇は大変お心をお痛めになられて、
「古えより、生前に寵愛をうけたものが、生きながら埋められるという習わしがあるが、今後はやめるようにせよ」
と仰せ出されました。
こんなことがあってから、四年ののち、皇后のヒハスヒメノミコトがおなくなりになりました。
天皇は歎きになりましたが、大臣をお集めになってご相談になりました。
「殉死の禁止は、前に決めた通りである。殉死は長年の悪しき慣習なので、これに代わるいい葬礼の方法はないものだろうか」
そのとき、ノミノスクネが天皇の前に進みでて申しました。
「仰せの通り、死せし人に生きながら従うはよくはありませぬ。埴土(はにつち・粘土のこと)をもって、人や馬をつくり、かわりに埋めてはいかがでしょうか」
天皇はハッタとお膝をおうちになり、
「さすがスクネ。それこそ朕の心にかなうものなるぞ。まことに満足じゃ」
と仰せられました。
スクネは出雲の国より土部(はじべ)一〇〇人を呼びよせ、粘土をもって人馬をつくり、陵墓に埋めました。
埴輪の起源を伝える「日本書紀」の物語です。
橿原考古学研究所付属博物館(近鉄「畝傍御陵前駅」近く)には、埴輪の実物を見ながら、その種類や変遷を興味深く鑑賞できるよう展示しています。
1993年1月18日掲載 |