神道

 

 

その時代性はすべてをのみこむ。古代に芽生えた縄文の精神はいまだに我々の日本人に影響を与えている。それはのちに神道と呼ばれるようになる。

 

日本人は無宗教といわれる。それなのによく秩序が保てるのが、世界から不思議に見られる。日本人はやはり神道なのだ。

その神道が「人間中心の宗教」故に人間関係を知らず知らずの内に身につけている

第1章 神道とはなにか 神の国は以下に誕生し根付いてきたか

神道は神を中心とするものではなく人間を中心とするものである。

絶えずかわち続ける神道

時代時代で違って見えるが、 神道の本質は縄文時代以来変わらない。今も進化している。

生命の繁栄を阻害するものが悪

神道が支えた戦後の日本の成長

ものにも魂が宿る。ものを大切にする心が高品質を産む。

周りの者の生命力を高めるために喜びを与えることも、「よき」行為とされた。

神社はどのように誕生したか

正直な人間は、あれこれ祈らなくても神々の守りを受ける。

祭りはいつ始まったのか

神道の基本は一人一人が思い思いに神を祭ることである。

国家の祭りは、支配層の政治的意図によって作られたものにすぎない。本来は個人、家、集落の祭りのみである。

日本の祭りの原型は、人々が神とともに飲み食いし、音楽や芸能を楽しむもの。神と人間とがともに楽しみ、明日からの生きる活力をつけようというもの。

神だのみだけではなにもよくならないとする考えにもとづくものだ。人々が力をあわせて熱心に仕事に取り組むとき、初めて、神の助けが得られる。

つまり、神と人とが、力を合わせて稲を育てることによって、国の安泰がもたらされるとされたのだ。

祖先の祭りをなぜ重視するのか

弥生時代に農耕生活が始まると祖霊信仰はさらに強まった。畑などは祖先の力が積み重なって今と恵みがもたらされていることが実感された。

穢れとは何か

神道では罪を犯すことを好むことを人間はいないという考えにたち、罪人は。「気の枯れた」気の毒な人とされた。そのため、神道を信仰する人々は日ごろから穢れを近づけないように清く明るくすごすように努めた。

祓いとはなにか

さいきんまでの日本人は法律的にはつみにならなくても「きたないこと」をする「きたないやつ」をたいそう嫌っていた。

昔は罪を犯した人間を償えば、受け入れる社会だった。

人間の良心に全幅の信頼をおく人間中心の宗教

第2章:日本人の中に生きる”八百万の神”の系譜

大国主命には八十神という多くの兄があった。因幡の白兎を救ったことをきっかけに美しい妻を得たために八十神と争いが始まった。

スサノオノ尊のもとで試練を受けて、八十神を打ち従えた。そして知恵のある少彦名命の助けを借りて「国つくり」を行った。

出雲大社の大国主命だけがオオクニヌシであったのではなく、地域ごとに別々のオオクニヌシがまつられていたのである。

3世紀はじめに誕生した大和朝廷がオオクニヌシを奉ったが、同様に別々のうちのひとつに過ぎなかった。

天照大神の誕生

日本書紀では、天皇の祖先が天照大神の命令を受けて、日本を統治するようになったとしている。

しかし、日本書紀は中大兄皇子が曽我氏を滅ぼしたあと編纂したものである。皇室の支配を正当化させるために古来の神話を自らの系譜に摩り替えた。

そのために地方豪族と同列のオオクニノヌシをあがめていたのでは都合が悪い。太陽神である天照大神を神話が「作られた」。しかし、新たな神が誰もしらないような神では困る。そこで南方系より伝わり、知られていたフィリピンなどの神話をモチーフに使った。

日本神話における天津神(あまつかみ)と国津神(こくつかみ)の系譜

高天原を追われたスサノオノ尊は八岐の大蛇の生贄になりそうだった奇稲田(くしいなだ)姫を救い、この子が大国主尊の代表である国津神(こくつかみ)である。この系譜によってたくみに、皇室はたくみに自らの地位を高めた。

すなわち、半神半人の国津神は一度穢れており、間違いを犯すが、天照よりの命により下界に下った「朕」は間違いを犯さないとしたのだ。

しかし、これは逆に君臨すれども統治せずという皇室のありかたを逆に規定した。

武家の棟梁である源氏の元服名が八幡太郎、故に武神

菅原道真をまつる天満宮は中世では、商工民の神であった。当時武家や農村を束ねていたのが藤原家であった。しかしこの秩序の外で商工民が成長しつつあった。菅原道真は、そのような実情をふまえて、地方の人々となるための政治を行おうとし、藤原氏に憎まれた。

争いののち菅原道真は破れ、ちょうど、そのころ道教から恨み怨霊という概念が日本に入ってきてこれと結びついた。

江戸時代に稲荷信仰や七福神などあらたな福の神の流行により天神は一度廃れるが、その後幕府の加護をうけた朱子学が天神信仰を率先したため、再興する。朱子学者は道真をすぐれた詩人、儒学者として尊敬したのである。

稲荷は渡来系の豪族によって開かれた

平安時代以後に神仏習合の考えが広まった。

 

竪穴式住居の配列や大きさはすべて平等である。これが弥生になると、大きな家と小さな家に分かれる。

縄文的要素 精霊崇拝 円の発想 共有財産性 平等の保障
弥生的要素 祖霊崇拝 区分の発想 私有財産制 身分制

 

地水火風:縄文の文様は呪文であり、言語である。神のおかげで土器をつくることができることへの感謝である。

 

 

弥生時代に祖霊信仰が誕生した背景

縄文人の間には火の信仰が強かった。ところが、弥生人は火よりも稲を育てる太陽と水の恵みを重んじるようになった。銅鐸は水の神にささげるもので、銅鏡は太陽の分身。銅矛と銅剣はそれらも守るもの。描かれる文様も水になる。

神は山に宿る。古墳は人工の山
 

それまでの発想には天地はなく、海の向こうにユートピアがあった。つまり垂直ではなく、水平だったのだ。これが儒教の影響により垂直になり、本来同格であったはずの「天津神」「国津神」のうちいつまにか高天原にい「天津神」が権威をもった。

 

 

 

国家神道

戸時代は全ての人は寺に属した、寺請け制度これには天皇も。伊勢神宮も属し

た。

江戸時代は国家仏教であり、寺に不満があった。

それが明治になり神仏判然 神仏分離 排仏毀釈(廃仏毀釈は間違い)

となり、不満が爆発。

法隆寺が聖徳神社、高野山が弘法神社を名をかえようとすらした。

社家制度廃止(世襲制)し人材途用を計った。

島崎藤村の夜明け前はこのころのことで、明治維新後の新政府の理想に深く共感

するが、やがて夢破れて発狂。(実話 島崎の父)

国家神道の形成は明治15年

南方熊楠と柳田國男(当時貴族院書記官長)は森をまもる活動をした。

南方熊楠を天皇は和歌山の神島にいった。

 

神式の結婚式は明治の後の大正天皇の典礼からスタート。

キリスト教をパクッタ

 

国家神道はGHQが命名

日本人を戦争にかりたてたイデオロギーが神道=軍国主義とみなしたのである。

 

古来日本では、常世(理想郷)は海の向こうにあると考えられていた、

それを垂直的に思考したのが高天原だ。4面を海に囲まれていたのがその要因。

それゆえ日本人が舶来のものを好む傾向はここにある。

 

卑弥呼はシャーマニズム(鬼道)

もともと道教において道の発展段階は鬼道 神道 真道 聖道と発展するとあっ

た。

中国では、仏教も道教と呼ばれていたが、仏教のほうな「聖道=聖教」という自

覚を持っていた。

これが日本に入り、当時まだ名もない宗教に「鬼道」と名づけるのは、かわいそ

うをとしてワンランク上の神道と名をつけたの。

 

鬼にはもともと(御 穏)の意味。鬼にすらもともとは仏教渡来後、一部のカミ

が零落して悪鬼と化したもの

 

神道は世界宗教に劣る民族宗教家?

未開宗教→民族宗教→世界宗教という宗教進化論を前提とするなら神道は民族宗

教のランクだ。

しかし、民族宗教は本当に世界宗教におとるのか?

アメリカはキリスト教国家であるが、実は民族宗教そのものではないか!9

 

僧侶も、牧師も女性を不浄とみなした。男尊女卑 女性蔑視

神道にはそれがない、卑弥呼も神功皇后、倭姫命

男の守護は女、女の守護は男

埴輪をみれば分かる。

 

死後は天国も地獄もない人はカミになるのだ。