二つの文化:自然科学的知性と人文的知性の統合
 

二つの文化を融合させる第一段階は、それぞれの違いを見つけ出すことである。

 

人工知能がどんなに発達しても、我々の知のそれとは、なにかが違う。

我々には「身体」があるからである。身体があるから、死をおそれ、宗教などが生まれ、恋愛にこころ震わせたりすることができる。

こうした「身体性の知」は、人工知能がどんなに発達しても到達できない種の知である。

人文科学的知性はこうした「身体性の知」に立脚している。

一方、自然科学的知は、コンピュータが最高に発達したとき、人工知能により代替できると思われる種の知だ。

次の問いに自然科学的知性と人文的知性ではどのような答えを出すか考えてみる。

そもそも知はあるのか?それとも感じるのか?そして幸せは「存在する」のか「感じる」のか?

自然科学的知性では、存在することが全てと答えるだろう。人文的知性では、青い鳥のように探してるプロセスすら、幸せなのであると答えるだろう。

こうした知の種類が違うところに立脚した二つの文化は、それ故に癒合できないのである。

二つの文化=二種類の知性

すなわち身体のない冷たい科学は、身体性の知の導入により人間性を回復できると思うのである。

しかし身体=個人という小さな次元ではない。身体=家族というのも立派だが、二つの文化の掛け橋にはならない。ガンジーや、マザーテレサになると、 身体=無償の愛という深い次元に到達できるが、やはり2つの文化の掛け橋にはならなかった。

現代の知に必要はスケールは、身体=GAIAであろう。

深く+広いスケール、これが二つの文化の掛け橋になるだろう。

(無償の愛を捨てていけない。無償の愛をベースにしてあくまでプラスアルファとしてのGAIA)

  自然科学的知性 人文的知性
人工知能により 代替可能 代替不可能
その原因 身体がない 身体性の知がある
知能の関係論的把握 知は存在するもの 知性は感じるもの
幸せは存在するのか、感じるのか 存在するものが全て 青い鳥を捕まえるプロセスも幸せ。