多文化主義のパラドックス

 オーストラリアは先住民や移民など人種の坩堝だ。

この国では対立を回避するため、各民族や文化を尊重するという、「多文化主義」という誇りがある。

しかし、98年あたりに脅威にさらされた。

主国民側の一部から、先鋭的はワイネイション党が登場し、国会で相当な議席を獲得してしまったのだ。KKKみたいなものだ。

あまりにマイノリティ文化を尊重し、それを保護する為に、政府のコストも多大になっていた。

保護を受ける側も援助金を受けるためによけいに異文化性を強調するなど、こころ違えをする集団ももいた。

すると、主流国民の間に経済と文化面で「逆差別」されているという被害意識が広まり、再構築型のナショナリズムが発生したのだ。

国民文化も多文化の一つだから、多文化主義のもと保護されるべきであるという主張も強まる。例えば、学校でクリスマスの行事だけして、イスラムの行事をおこなえないので、いっそ全部やめるとか、公の場では、クリスマスツリーを撤去するとか)

今は下火だか、

「多分化主義」になってしまったのだ。

そして、「古典的人種差別」から「新人種差別」が行われる。

表向き人種差別はできなくなったが、従来より洗練され、陰湿になった。

文化的な差異は遺伝されたものの如く決定的であり、さまざまな生活様式や伝統の併存は不可能だというものだ。

結果の兵頭はよくない。機会の平等だけを与えるべきであって、過度の福祉は勤労意欲、自立心を失わせるというものだ。

 

多・文化主義から、多文化・主義へ

文化とは何なのか

まず、本質主義的文化間からの、脱却をしなければなるまい。

そもそも文化は歴史の中で醸造されてきたものだ。ある特定の文化が他の文化の影響をさけながら、純粋な形で存在しているという前提は破棄する

むしろ、人が人種・民族・エスニシティにこだわるのは、民族が形成され、民族文化の神聖性が強調されるようになった近代国家システム成立以降だということがはっきりしている。

伝統的民族文化というものは、国民国家の形成を急ぎ、独立を全うするために主張された政治的レトリックに過ぎないことが多い。

こうした政治的な文化は、民族自決の正当性を明確にするために、歴史的にも古くから存在していると主張する必要がある。

あくまで政治上のレトリックに過ぎないから、伝統的民族文化を具現化した純粋な民族的代表者というものは存在しない。

ありもしない純粋で不変的な政治的文化がそのまま生活文化の交流を否定する言説とてっているので問題が生じるのだ。

文化は人が生きるために発明された道具であり、本質的に神聖なるものであるわけがない。

 

フランス語でクレオール文化、英語でハイブリッッド文化と呼ばれる。

新しい文化観

「文化は常に人々の必要に応じて作り変えられるという、生活の道具」という新しい文化観が必要。

ただ単に自分が育った時に存在した文化に対して人は愛着をいだくにすぎない。

グローバリゼーションの時代に本質的文化観とそれに基づく同質的国民国家を「多・文化主義」は生き残れまい。もはや通用しなくなったのである。

 

地球スケールで捉えたとき排他的一神教は排除されるものと結論がつけられるのです。

 

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