生命科学

 

 かつて生命の本質についてはあらゆる学問から何千何万もの学者がいどみ、そして玉砕してきた。

 しかし、今の科学でも、今もって苦戦中である。ひどい場合には他の科学に一歩遅れた、邪教的にあつかわれる。生命である我々が生命を異端者扱いすることが、そもそも異常なのである。

これを覆す事は、難しい。
ベルタランフィ>思想としての機械論は哲学、物理学からの借り物であり、生気論は心理学、淘汰は社会学からの借り物である。生物学は一個の科学として任務を全うする為の基本が脆弱なのである。
それ故、さまざまな学術論争の波に翻弄される。しかし、それは生命にかかわる科学者が怠慢なわけではない。
それほどあらゆる分野の最先端の科学が導入されなければ解決できない分野なのである。
生命については、その起源、成長、進化、死の定義に至るまで、全てがまだ解決済みとはいえない。
起源論争では、自然発生説、パンスペルミア説
進化論争では、ダーウィニズムとの決別。
成長プロセス
 
カール・ホパーが機械論の立場から生命を「約束唯物論」と表現している。この約束唯物論」は現状は不明だが、将来は機械論で説明できるとしたものである。
しかし、この約束はどうやら果たされそうもない。
なぜなら、生命のプロセスには「全体は部分の総和は以上である」という視点が必要だからだ。
例え物理の分野でクウォークが発見され機械論が完成されようと、生物学は独自の有機科学を進むべきなのである。

生命は現状ではノーベル化学賞のライナス・ポーリングの「生命を定義することは、研究するほうがやさしい。化学者は定義しないで研究すればよい。」の言葉の通りに安易に定義しないほうがいいだろう。
「生命の定義」という根本土台が築かれないままに、建てられた砂上の科学なのである。
ここで学んだ原理を人間やその社会システムに適用するなら、われわれは生命の自然なやり方とでもいうべき深淵な道を習う事ができるかもしれない。
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