1890年:教育勅語:名事件憲法には道徳の項がなかった。また。ドイツのプロシア憲法を下敷きにした憲法は日本人としっくりこなかった。それを補うためにもうひとつの憲法として、教育勅語がだされた。「億兆心を一にして」とかやたら全体を強調する。これは、もはや中忠誠を誓う存在は藩ではないということをしめしたものに過ぎない。藩ではなくこれからは国家のため尽くせといっているだけであって、軍国主義とはほど遠い。
1894から95:日清戦争
きっかけは東学院の乱
清国は壬午政変、甲申政変と日朝関係を踏みにじった。そして朝鮮で民族自決をもって、外国排斥ととなえた、新興宗教東学院が各地で反乱をおこし、これに乗じて、清国が朝鮮に出兵したのがきっかけだった。
2国の宣戦布告文書をみれば明らかである。
日本「朝鮮はわが国が誘って、列強に加わらせた、独立の一国であるのに、清国はつねに朝鮮を自分の属国と言って、内政に干渉しづづけている」
中国「朝鮮はわが大清国に藩属たること200年、毎年朝貢している国である」
世界が義戦と賞賛した。
1895年:下関条約:
1.朝鮮を清国から独立国として認めること。
2.賠償金もしくは、清国の領土一部割譲(台湾と関東州)(朝鮮の土地はいっぺんもとらなかった)
朝鮮半島有史以来の「皇帝」と誕生させた(王と皇帝は雲泥の差である。王は藩にすぎない)
1895年:三国干渉
戦争に負けた清国は、「夷を以って夷を制す」の戦略で李鴻章にロシアと接触をはかる。やがてフランス、イギリスもともない「東洋の平和を乱す故、朝鮮を清国に返せ」と干渉してきた。ロシアは南下したく、そこに日本の後ろ盾を持った朝鮮国があっては邪魔なのだ。
1895年:台湾統治:搾取ではなく、発展を目指す。 日本はやむなく朝鮮を清国に返すが、台湾は日本のままが許された。満州人である清朝にとっては、遼東半島が独立することには抵抗があったが、台湾はかまわなかった。もとより、台湾は清朝の統治下であったことはなく、伝染病が蔓延しており、列強もだれも、頼まれてもいらない島だった。
そこで日本は理想的統治を行った。列強の植民地政策とはまったく違う次元の、搾取では発展を目指した、脱植民地政策であった。
1897年:「東洋の平和を乱す故、朝鮮を清国に返せ」といったわずか3年後にロシア・イギリス・フランスは清国の解体にはいる。
ロシアは旅順と大連を租借した。フランスは広州湾、ドイツは膠州湾とチンタオ、イギリスはクーロンなどやりたい放題をつくした。
そして韓国が寝返った。あれほどの大恩がる日本を裏切ったのだ。もとより韓国には「事大主義」というのがある。大きくて、強い国に自国をゆだねるというものだ。「やはり白人の側についたほうがいい」と親日派と対立始めたのだ。
1900年:北清事変:租借問題で、清国に西洋排斥がおこり義和団が結成される。各地で教会や多くの西欧人を殺害。列強は日本に鎮圧を要請してきたが、「暴動を口実に侵略にのりだした」と言われるのをさけ、動かなかった。結局イギリス政府から正式な自国民の保護の以来があって動いた。この時代、占拠した土地の収奪、強姦は当たり前だったが、日本は鎮圧後、こういうことには手を染めず、さっさと引き上げた。これが、世界の賞賛を浴び、日英同盟となった。
1902年:アメリカの西進政策:1890年アメリカ国政調査局は「フロンティアの消滅」宣言をした。アメリカの全ての土地に入植者が入ったことを認めた。そして次のフロンティアを太平洋に求めた。そしてシナをほしがった。
1904年:M37日露戦争開戦:朝鮮半島をほぼ支配下おいた、ロシアが日本に攻め国恐れを感じ、開戦にいたる。イギリス、ユダヤの力を借りた。
1905年:奉天の会戦:騎兵ではかなわないことを悟り、機関銃を与え、馬を降りて、戦うことを命じた。第二の桶狭間である。
有色人種が白人を破った。この歴史的勝利は有色人種に勇気を与え、その後の白人による全地球アパルトヘイト化をとめた。
ロシアの市民もこれは侵略だと気がついていた。そして多大な犠牲をはらって、負けた。ロマノフ王朝は信用を失い、やがて国家崩壊の道へ突き進む。
1905M38:日本海海戦
1905:日露戦争終結
1905:桂・ハリマン:アメリカもシナし進出したかった。そして、日本に満州鉄道の共同経営を申し入れてきた。
しかし、これは、シナの国民に大変ひどい搾取を与えるものと条文がついていた。日本は共同経営を断った。
ここから日本とアメリカはこじれだした。白人が黄色人種に断られるというのが我慢ならなかったのだ。
1906M39:オレンジ計画:アメリカが打倒・日本を方針とした。反日が国策になった。
1909M42:伊藤博文暗殺
1910M43韓国併合ー45年
1912:T1大正デモクラシー
1914:T3:第一次大戦:日本は参戦したくなかった。イギリスより何度も要請があったが、ついにヨーロッパに派兵しなかった。
アメリカはイギリスに取り入り。日本はイギリスに逆恨みされる結果になった。
1917T6:ロシア革命
1919T8パリ平和会議:第一次大戦に敗れたドイツは多大な賠償金を求められた。これが、後のヒトラーを生む
初期の国家社会主義は目覚しい成果を挙げた。ドイツ・イタリアはこれを目指し始めた。
1930年:右翼社会主義の台頭
日本を大東亜戦争に走らせたのはなにか?「軍国主義」か「国家主義」か?否である。
社会主義と要素を抜きにして、その本質を語れない。
ロシア革命で存在感を増した共産主義。そのころ世界は大恐慌で、五ヵ年政策を成功しているように見えたソ連は脅威であった。
統制経済と取り入れた。しかし、天皇を否定する共産主義は受け入れられない。そこで日本は天皇による社会主義に走ろうとしたのである。
その思想的中心は北一輝と大川周明である。天皇以下の資本階級を抹消せよというのである。彼らは天皇をスターリンに置き換えれば、ソ連の共産主義とまったく同じ体制を考えた。逆に言えば、天皇という「錦の御旗」にくるむことで、共産主義を進めようとしたのだ。
これに心酔したのが青年将校たちだった。彼らはスーパーエリートの卵だったが、若いころは貧しかった。そして出身の多くは農村だった。そこで、娘たちが資本家に売られたりしているのを義憤を感じたのである。
1930年:ロンドン海軍軍縮会議でと不当かつ不平等な軍縮をせまられる。
そして統帥権問題が起こる。内閣は天皇の権限代行しているだけと反論する。
発布依頼40年もたって、なぜ統帥権問題がいまされ欠陥になったのか?
憲法には記載してなかったが、それ以前の日本は、元老院があったのだ。伊藤博文、山形有朋、西園寺公望など明治維新の功労者が厳然たる権威を持ち内閣と軍部を結び付けていた。この元老が死に絶え、明治憲法の欠陥につけ込まれたのだ・
1931年:満州事変
満州事変は「侵略ではない」
日露戦争以来満州は正式に日本権益である。
226事件以来くすぶりつづけた統帥権もんだいが、満州で爆発した。内閣のいうことを、東京の軍本部のいうことすら聞かない青年将校の下克上だった。
1932年
満州国宣言:辛亥革命により紫禁城をおわれた溥儀が逃げ込んだ先は日本公使館だった。イギリス人の家庭教師が日本公使館が一番安全だとアドバイスしたからだ。溥儀の日本の皇室を尊敬しており、親日派だった。
満州国は女真族である溥儀の故郷であり、民族自決という観点からも理にかなっており、溥儀も望んだことで、大臣は全員満州人だった。
五族協和は実現されていた。
政権不在の為不安定だった満州はの治安は数段によくなり、人口を大幅に吸引した。
満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族そして日本民族。それが建前でなかったことは、大量に移民が入ってきたことで証明できる。
国連のリットン報告書でもこれを侵略としなかった。日本は国連を脱退する必要はなかった。
なぜ、ハワイに上陸しなかったのか?