「第三の文化」

ブロックマン


http://park.itc.u-tokyo.ac.jp/sakuralab/about/Brockman.htm

"The Third Culture 〜Beyond the Scientific Revolution〜"
(by John Brockman ) の序章について

 




I ) 本書の外枠について
 



(A)「第三の文化」とは?
現代の人文系( Literatury Intellectual ただし、西欧で「人文系」というと、「古典の知」の意味合いが日本よりはるかに強い)と科学( Science )の大きな乖離を乗り超える、新たな文化のこと。ブロックマンの「知の再編成」実践運動のキーワード。
これから変化し発展していくのは、古典の人文的な知ではなく科学によって認識される世界であり、その知識を一般人に「直接」伝えることができるのが、「第三の文化」の担い手である、という。本書では、さまざまな知識人(人選は科学者中心)が、「第三の文化」の可能性を論じている。

(B)編著者ジョン・ブロックマンとは?
ニューヨーク在住の編集者・作家。草思社から翻訳出版されている「サイエンス・マスターズ・シリーズ」は彼のプロデュース。「第三の文化」を考えるウェブサイト「エッジ」<www.edge.org>を主催している。本人は大学で経営学を学んでいたらしい。

(C)本書の構成方式
@各「第三文化の担い手」へのインタビューをもとに、ブロックマンらが構成
Aそれぞれ識者の主張のあとに、「第三の文化」グループの、他のメンバーの短いコメントを掲載

(D)本書全体の章立て
@1章:進化論が中心テーマ:「複雑さ」はどのように生まれるか?が全体のテーマ
A2章:意識が中心テーマ:特にコンピュータを使った工学的見地から、複雑な意識へアプローチすることで何がみえるか
B3章:宇宙論がテーマ:「宇宙のはじまりと終わり」といった包括的な研究がなされるようになった最新の宇宙論を背景に、やはり「複雑さ」の生成について
C4章:複雑系の研究者たちが登場
D終章

※全体を通して、「単純なものからどうやって複雑なものが生み出されてきたか」がテーマ。
 つまり、ブロックマンの考える「第三の文化」とは、最新の科学的知見によって自分自身が、
 ・いまこの世界にある多様なモノ・コトと「空間的なつながり」をもて、さらに
 ・宇宙や生命のはじまりから終わりまでを視野にいれた「時間的なつながり」をももてるような、
 そんな"四次元的"な世界観を獲得できることを目的としているのでしょう。



II ) 本書の前提としての「二つの文化」論〜C.P.スノー『二つの文化と科学革命』について〜
 



(A)著者スノーと、『二つの文化〜』出版に関して
@スノー(1905〜1980):英国の物理学者で小説家
A1959年にケンブリッジ大で行われた彼の講演は国境をこえて各界から大反響を呼んだ
「自分の話は、純粋にオリジナルな発想ではなく、同時代の人々が幅広く共有していた問題だったから、これだけ一気に火がついたのだろう」とスノーも述懐
Bその後、自分の発表に対して提出された様々な批判・賛同の文章と、さらにそれに対する自らのコメント等もつけたし、再度、出版(←誠実!)
C本書の時代背景
 a ) 冷戦下(特に対ソ意識が底にみえ、非常に「英国の未来のために、科学技術の担い手を増やさなければ英国は没落する」という危機意識が強い)
 b ) 「科学革命」の社会普及(エレクトロニクス、原子力工業、オートメーション等による産業革命の意味でスノーはこの言葉を使っているので、科学論における「科学革命」とは別モノと考えるべき。ブロックマンもこの意味で使っているように思えますが)
 c ) 文化相対主義の兆し(『現代科学論』(新曜社・2000)の井山弘幸氏の文章による)

(B)『二つの文化〜』の講演の概要
@全西欧社会(特に英国)において、人文系知識人と科学者(当時は、特に物理学者のことを指している)の分極化。両者の相互無理解とコミュニケーションの欠如は、知的にも社会的にも(何より英国の国力的に)大きな損失
 科学者→文学的知識人:先見の明を欠き、現実に無関心
 文学的知識人→科学者:浅はかな楽観主義者
 スノー→科学者:伝統的分野に無関心すぎ
 スノー→文学者:伝統的分野こそ文化のすべてとしすぎ

Aしかし、それは「新たな文化」を創るチャンスでもある
 異なる二つが衝突するとき、新しいものは生まれるから
B産業革命・科学革命と現代
 a ) 産業革命の社会へ影響を考慮に入れてこなかった英国文学系知識人は「ラダイト知識人」
  ※ラダイト=産業革命のさいに、「機械のせいで失業する」と暴動を起こした職人たち
 b ) そして今、1920年代(物理学の革命期)以降の「科学革命」を理解できていない英国内の(古典人文的)知識人
C「二つの文化」問題を考えることで期待される可能性
 a ) 国内における教育体制の改善
 b ) 南北問題への理解(南の国に啓蒙を!)
D今後は、生物学の知を動員した「第三の文化」誕生に期待(これは1963年発行の同書第二版で付け足された部分)
→「次世代の人々は、今後の進展が予測される分子生物学を学ぶべき。生物学はわれわれ人間そのものに関する研究だから」(当時は、物理学こそ科学!の風潮が普通だったことが感じられる。また、ここでスノーは明らかに「人文知識人」の立場にたっていて、自分たちが科学を学び、新たな文化を創ろうと提唱している)
E科学は「文化」か?
 a ) 技術と文化は分けられないもの
 b ) 両方とも「われわれの人間性を特徴づける性質と能力」であることに変わりはない
 c ) 科学の中の「純粋科学」と「技術」の複雑な二元性は深刻な問題(これは2002年のいまも、大きな問題のまま)
Fなぜ「二つ」か?
→これにはいろいろ批判があがった(芸術はどうなのだ、とか)

※こうしてみると、(この本自体は今読むとそんなにおもしろくはないのだが)今でも非常に重要な問題がいろいろ指摘されているのは確かである。



III ) 本書・序章部分の概要
 



(A)前半:ブロックマンの「第三の文化」論
@新たな科学主導による「知」の再編成に期待(しかもそれは、広く現代の人々に訴えかけられるものであるべき)
A古典教養にしがみつくヨーロッパ人文学者でなく、特に(経験主義的な)英米の科学者・思想家に期待する
Bスノーの「第三の文化」とブロックマンの「第三の文化」との違い:スノーは「文学的知識人が、科学の言葉を用いるようになることで「第三の文化」が生まれると予想していたが、文学的知識人は相変わらず閉塞状況にある。その一方で、科学者はジャーナリストを介さず、直接、知的な人々にコミュニケーションをとりはじめた。知的な人々も、新しく重要な知に飢えていて、自ら学び取ろうとしている」
C科学そのものが、もはや「公衆文化」となったことも、「第三の文化」出現の大きな要因。科学はもはや特殊な存在でなく、その存在感はますます増すはず。現にこの数年、メディアでも分子生物学、ヒトゲノム、人工知能、カオス論、ニューラルネット、複雑系システム、インフレ宇宙論、ファジイ論、バーチャルリアリティ、バイオスフィア……が取り上げられ、それらは伝統的な知と異なり、われわれに直接関係してくる。
D知識人は、(知を)統合し、出版し、同時代の人々とのコミュニケーションをとらなければいけない。それが「第三の文化」を担える思想家である。

(B)後半:本書に登場する人々の「第三の文化」論(ここではまだ皆、軽いコメントのレベルなので、要旨のみにとどめますが)
@Stephen Jay Gould(進化生物学)
アメリカ人のうち、決して高い割合が「第三の文化」への知的好奇心をもっているとは言えないが、何しろ人口が多いのだから、興味を持つ人々の数も結局は非常に大きなものとなっている。
AMurray Gell-Man(物理学)
人々が再び科学に興味をもちはじめた現状を喜ぶ。そして芸術・人文系知識人(特に社会科学者)の科学教養のなさをあざ笑っている。
BDaniel C. Dennett(哲学者)
 大陸(=フランス・ドイツ)の哲学者は役立たず。
CRichard Dawkins(進化生物学)
 なぜメディアでは人文系ばかりが「知識人」とされるのか?(あと自分の本が広く読まれていることの自慢)
DSteve Jones(進化生物学)
1950年までは「文化」は「文化」であり、「二つ」に分けるようなものではなかった。今でも「知識人」は、両方に精通しているべき。
EPaul Davies(物理学)
すでに科学者のほうが変化し、科学の影響力は大きくなっている。それに対し、古典偏重の英国知識界は猛烈に反発している。
FNicholas Humphrey(心理学)
 古典偏重な英国人文知識系バッシング。
GW.Daniel Hillis(コンピュータ)
 今でも、科学者が一般の人々に語ることは、その業界内では蔑視(と嫉妬)の対象になりうる。
HRoger Schank(コンピュータ)
 「あらゆる分野でのエキスパート」は不可能。科学者は閉塞的なサークルを脱け出て、一般の人に語りかける意義を見いだしたし、人びともそれに興味をもっている(人文系学者は今ももっていないけれども)
IJ. Doyne Farmer(物理学)
 19世紀まで、科学者が本を出すときは「哲学」のシリーズからだったことからわかるように、両者に境界はなかった。1920年代に偉業を成し遂げたアインシュタインやボーアら物理学者も、哲学の教養ももっていた。しかし1950年代までにそうした傾向は失われ、一般向けの本を書くことは、名声をおとしめる、といわれるようになった。
JMartin Rees(物理学)
 英国の教育は専門化しすぎ。15歳で科学教育が一切なくなることもある。
KLee Smolin(物理学)
 文学的知識人は、コミュニケーションせず本ばかり読んでいる閉塞的な存在。へーゲルとかハイデガーとかばかり言っていて、何をいってるのかさっぱりわからない。科学のほうが健全。だから「第三の文化」に、すぐにでも「自然哲学の復興」をみいだしたいところだが、それも楽観的すぎる。というのも、17世紀と今では世界像が違いすぎるからだ。今や、世界は静的でも永遠でもない。しかしわかってきたのは、生命世界( living world )は複雑で、自己創出しているということ。今後、同じことが宇宙の構造にもみいだせるだろう。「第三の文化」はそうした視点に立っている

――全体的に、ちょっと「科学>人文(特に大陸哲学)」な価値観が強すぎかなーとも思ってしまいます。でも、マニフェストとしては、これくらいでよいのでしょうけども。

 

text by Atsuo Matsumaru



 


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