コスモロジーの創造 |
岡野守也 |
日本人の倫理観が段階的に落ちた事に気がついた。
1:社会に貢献することがいいこと、に始まり
2:人に迷惑さえかけなければ、自分の自由にしていい。となり
3:法律で処罰を受けることでなければ、何をしても。自分の勝手だ。
4:ばれなければ処罰されないから、隠れて自分勝手なことをすればいい。
5:ついには、なぜ悪いことをしてはいけないのかわからない。
6:処罰を覚悟しているから、ばれてもかまわない。もう勝手を止めるものは何もない。
精神の荒廃はまだ進んでいるのではないか。
精神荒廃の原因を考えた。
子供の頃こうやって起こられたもんだ。
ご先祖様に顔た立たない→祖霊崇拝
バチがあたるよ→罰
ヒトが見て無くても、お天道様が見ているよ→自然信仰
しかし、崇拝の対象たる自然は破壊され、金にまみれた日本は恥も外聞のなくなり、勉強さえできればよいと、価値の基準が心から物になった。
そして、自由の履き違えが倫理を殺した。倫理は自由の目的ではない。倫理は自由の条件なのだ。
ではどうすればいいのか?
ではどうすればいいのか?
この根底に「ニヒリズム」の蔓延があると思う。近代のニヒリズムはヒューマニズムでは、超えられないことは、結果を見ての通りだ。
祖霊崇拝、罰、自然信仰の伝統に戻るれる人はいいだろう。子供の教育にはこれでいいだろう。しかし、ほとんどの大人には価値地準にならない。
そうした伝統も、ニヒリズムも、理性も科学もヒューマニズムも全部含んで、さらに越えるこういうものが必要だ。無理か?いやできるだろう。それには・・・
それには・・・
我々は地球・コスモスの一部であり、その進化の先端であるspiritをも実現する可能性を含んでいることを再認識することである。
その進化を自分自身において開花させる権利と責任、それらからコスモスのほかの部分−例えば、全人類や全生態系−の全面的な開花(ビッグブルーム)にも協力する権利と責任が与えられている。
そこに人間が人間として生きる意味がある。
ヒトの形をかぶり、物の心をもつ者が闊歩する−そんな世界にしてはならない。
ヒトとして生まれ、ヒトの心を深化させるのは、尊厳のもてることなのだ。
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