1996年

科学と悪霊

 カール・セーガン

 

いちばん貴重な物

科学にとっていちばん貴重なものはなにか?相対性理論、量子力学?

いやいや、そんな一つ一つの理論をとやかくいうつもりはありません。

 いちばん貴重な物は科学自身に”エラー修正機能”が組み込まれているということです。

 そして似非科学と決定的に違っているのは、本当の科学のほうが、人間の不完全さや、誤りやすさをずっと認識している点です。むしろ「人間は間違うことを断固として認める」ぐらい積極的な機能をもっているのです。

ですから、誤りを含んだ科学と似非科学はまったく異質のものなのです。

 

科学と希望

 科学を大衆に伝えるのが下手だったり、伝える機会が少なかったりすると、すぐに似非科学がはびこり始める。

 似非科学は本当の科学が与えてくれないような感情面の強い欲求に訴えかける。

 人間というものは、絶対に確かだといえるものが欲しくてたまらないのかもしれない。しかし、確信の誘惑を断ち切るのは難しい。そもそも科学がいざなう先にあるのは、ありのままの世界で、こうあってほしいという願望ではない

 それにしても科学は、なぜそんなに人気がないのだろう?調査によれば、アメリカでさえ、およそ95%の人が科学のイロハもわからない。95%といえば、南北戦争以前に読み書きできなかったアフリカ系アメリカ人を同じ割合だ。これは、当時奴隷に読み書きを教えると重い罰を受けていたことによるものだが、そのパーセンテージと同じなのだ。なんとも深刻な数字だ。

 高度な知識を持つ一部の専門家にしか分からない世界でいいのだろうか?いやそれではかえって危険と考えた方がいい。

 よく、科学は難しすぎる、複雑だと嫌われるが、科学が複雑で難しいのはたいていの場合、現実の世界が複雑だからだ。(我々が勝手に混乱している場合もあるが)

 それでも、はっきりしていることが一つある。今我々は巨大な力を持ってしまっている。この時代に科学的文盲は地球規模の危機を招きかねないということだ。オゾン破壊、酸性雨、森林破棄、人口の爆発などなど、核など持ちださなくても、危機はすぐそこにいくらでも転がっている。被害者の数 も何億人にもなるが、この場合もっと深刻なのは、加害者も何億人もいるということである。

 それ故、今の時代に科学的思考は必然である。なにも科学者になれというのではない。科学的な考え方を広めることが大切なのだ。

 例えそれが我々にとって、好ましくない結果(例えば、我々の祖先がサルであることを未だ拒否を示す人はゴマンといる)をもたらそうともだ。

 しかし、いつかその不満もすっかり理解される時がくるだろう。その時はきっと得な取引をしたと思うに違いない。

 

宇宙人

ミステリーサークルだって?

なんとしみったれたことしか宇宙人に期待しないのか!

畑のサークルが宇宙人のいる証拠だって?

求める証拠の水準もあまりに低いじゃないか。

わざわざでっち上げなくても宇宙は神秘に満ちている

 

悪霊に憑かれた世界

真の光景と偽の光景の区別について

信じやすい人は奇妙なことを信じることに無上の喜びを見いだすものだ。

しかも、奇妙であればあるほど受け入れやすいのである。

ところがそういう人は、平明でいかにもありそうなことは重んじようとしない。誰でも信じられるからだ。

 

事実にこだわること

自分が証拠だとおもっていたものを信じる権利など無い。

証拠の不在は、不在の証拠ではない

 

反科学

客観的事実など存在しない。人は自分なりの真実を作るのだ。

しかし科学はどうしてかくも嫌われるのか?

小学校3年から初めて、大学院初等までで、ざっと15年これでやっと基礎だ。

量子の世界にはいると更に幾数年いる。たしかに多くの時間が必要だ。

しかし、人類数万年の英知をたったこれだけの時間でマスターできるのだと考えるべきだろう。

逆に、神秘的修行を20年も続けてなにが得られるというのか?

実は、科学を攻撃してきたのは、似非科学ではなく、反科学なのである。

科学者は間違いを犯す。だから人間の弱さを認め、広く意見を聞いて、手加減せずに自己批判すること。科学というのは自己修正機能をもった集団的企てなのだ。

 

さもなければ、真実を探るための手段は失われてしまう。すると私達は日和見主義と臆病さとに冒され、拠り所にすべき、長続きする価値などなにも無いまま、ほんのかすかな、イデオロギーの風にも流されてしまうだろう。

ルイセンコのような過ちは二度とゴメンである。

ニュートンの眠り

ダーウィン>確信というものは、知識のあるところよりも、知識の無いところから生まれることが多い。あれこれの問題は科学では決して解明出来ないだろうと断言するのは、知識のある人ではなく、知識のない人々なのである

 

あらゆることが可能になって欲しい人。リアリティーに枠をはめられたくない人。

 

科学が示す妥当な線はあまりに貧しすぎると感じているようだ。しかし、科学がなにからなにまで、解決してくれないからといって科学が悪いのだろうか?むしろそんな期待を勝手にかけている方が、勝手なのである。

科学は人間という種にのみ使いうる道具である。だから人間性を奪うどころか、もっとも人間らしいと言うべきではないだろうか?

反科学者>科学が、あれはできない、これはできないと枠をはめていくのは実にいまいましい。その上科学は原理的にすらできないという。いったい光より速く飛べないなんて誰が決めたんだ。ついこの間まで、音より速く飛べないといっていたばかりじゃないか。

実をいうと限界を課しているのは、科学でなく、自然そのものなのだ。

最も正確な時計は?原子時計?いやいや太陽系の運動そのものだ。その観測を置き換えたのが、時計だね。

 

科学者が罪を知るとき

オッペンハイマー>「今や科学は罪を知ったのです

テクノロジーは人と共にあったのだ。

しかし兵器は別と考えた方がいい。

科学者の倫理的責任は途方もなく重い。

人間の弱さは生まれついてのままなのに、巨大な力を持ってしまった今、より強い精神をもたなければならない。

 

懐疑する精神と驚嘆する感性の結婚

真実ではありえないほど不思議なことなど無いのである。

私達の判断には、偏見に満ちあふれている。

自然を尋問にかけるには、少なくとも裁判所がやっているぐらいの手続きは必要だろう。

科学が人々に救いを与えない限り、信仰をただ奪ってしまうのは考えものかもしれない。

科学をなまくらなまま使うことは、かえって逆効果だ。先に否定ありきになりかねない。

 

風はほこりをたてる

科学的思考を妨げているのは、科学そのものの難しさではない。実際、抑圧的な文化であっても、その大黒柱になっているのは、複雑な知の技法だ。

科学的思考を真に妨げているのは、政治的状況や社会のヒエラルキーなのだ。

自然を尋問にかけても、得られるのはありのままだけだ。

 

 

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141「カール・セーガン科学と悪霊を語る」 カール・セーガン The Demon-Hunted World Carl Sagan 1996 年 (訳: 青木薫 1997 年) 新潮社 カール・セーガン 科学と悪霊を語る

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