知の歴史 |
序
第1章 自然の自由
1 自分たちの正体を学ぶ
2 わたしはわたし
3 空気のようにあたりまえ
4 ダンボの魔法の羽根とポーリーナの災厄
第2章 決定論について考えるためのツール
1 単純化しすぎると役にたつ
2 コンウェイのライフゲーム世界における物理から設計へ
3 デウス・エクス・マキーナにたどりつけるだろうか?
4 ゆっくりした回避からスターウォーズまで…
5 可避性の誕生
第3章 決定論について考える
1 可能世界
2 因果律
3 オースティンのパット
4 コンピュータ・チェス・マラソン
5 決定論的宇宙における原因のない事象
6 未来は過去に似るだろうか?
第4章 リバータリアニズムの言い分をきく
1 リバータリアニズムの魅力
2 とても必要なギャップはどこにおく?
3 ケインの非決定論的意志決定モデル
4 「自分を思いっきり小さくすれば、事実上す
べてを外部化できる」
5 最初の哺乳動物にご用心
6 「自分次第」なんてあり得るの?
第5章 これはどの設計はどこからきたの?
1始まり
2囚人のジレンマ
3 多数で構成された統一体?
4 余談‐遺伝的決定論の脅威
5 自由の程度と真実の追究
第6章 オープンな心の進化
1 文化的な共生が霊長類を人間にする
2 ダーウィン主義的説明の多様性
3 いいツールだけど、使わなきゃ始まらないよ=
第7章 道徳的行為の進化
1 ベン利己主義
2 善良に見えたいから善良にふるまう
3 自分白身とどう対処するか
4 我らが高価な便益バッジ
第8章 あなたはカヤの外ですか? ‐
1 まちがった教訓を引き出す
2 その気になったらいつでも
3 書心術者の見方
4 自分だけの自己
第9章 自分で自分を自由へと引き上げる
1 合理性をつかまえて自分自身のものにする
2 心理エンジュアリングと合理性の軍拡競争
3 友達の助けをちょっと借りて
4 自律性、洗脳、教育
第10章 人の自由の未来
1 にじり寄る無罪宣告に対する一線を保つ
2 「罰してくれて目がさめたよよ
3 人は望んだよりも自由すぎるだろうか?
4 人間の自由はもろいのだ
訳者解説== a 書誌的なデータ
b これは何の本なの?
c デネットってだあれ?・
d せっかちな人のための要約Part1:進化する自由
e せっかちな人のための要約Part2:自由意志否定論への反駁
f なぜ本書の議論があなたにはピンとこないのか
g 謝辞その他
参考文献
索引
訳者解説
a 書誌的なデータ
本書はDaniel C.Dennett Freedom Evolves(2003,Viking/Penguin)の全訳である。
翻訳の底本としては最初に出たハードカバー版を途中まで使用してい たが、重くてかさばるので、途中からぺーパーバック版に切り替えた。ペーパーバック版に際して行わ
れた多少の修正などはすべて反映済みとなっている。
b これは何の本なの?
題名通り、これは自由についての本だ。自由というのは、わかりやすそうで、実は考え
れば考えるほどよくわからない。ぼくたちは本当に自由な
んだろうか? みんなそうだと思っている。
でも、実際にやっていることを考えたとき、ホントに自由
かどかだんだん自信がなくなってこないヤツ
は(少なくともその経験のないヤツは)自由ってものをホントに考えたことがない、幸せな人だ。何でもできる自由なんかだれも持っていない。見てごらん。世の中、制約だらけだ。好きなときに仕事をさぼるわけにはいかないし、はだかで外をうろつくこともできない。今からサツカーの世界的選手になることもできない。しっぽをはやすこともできないし、そのままじゃ空も飛べないし、死を逃れること右できない。
世界は制約だらけで、実は自由なんかほとんどないじゃないか。
あるいは、各種の自然科学の知見が発達してきたおかけで、人間にまつわるあれこれを事前に決定づけているとされるものがいろいろ出てきたし、それが最近は科学の進歩で増える傾向にある。世の中は原子や素粒子でできてるんだから、その動きで何でも決まってるのでは? 遺伝でもう全部決まるのでは? 環境要因で全部決まるのでは? 過去の経験からくるいろんな条件付けで決まるのでは? 効用関数で全部決まるのでは? 精神病だと犯罪を犯しても「自分の意志じゃなかった」と言って責任とらないですか。教育が悪かったとか社会が悪かったとかマクドナルドやたばこ会社やラップやマンガやテレビゲームのせいで犯罪その他をやらかしたんだから、自分は責任とる必要がない、みたいな議論も、多くの場面で大まじめに議論されていたりする。要するに、そういうものが人の行動を決めるのであって、実はその人たちには自由はなかったんだ、と言ってるわけだ。
ここまではバカでも思いつく。2ちゃんねるにだってこんなスレは立っている。でも、さらにその先がある。仮にここまでみたいな話がとりあえず解決して、やっぱりぼくたちの目の前にはいろんな選択肢があって、それが自由に選択できる、ということになったとしよう。でもその場合の「自由に」ってどういう意味だ? 「あたしはこういう決断を、自分の自由意志でしたんだ?「自分の意志だからあたしはこういう決断を自分の自由意志でしたんだ!自分の意志だからあたしが責任をもつ!」と言うためには、そこで自分かいい加減にサイコロ振りました、という話じゃすまないだろう。それまでの自分の経験なり嗜好なりに荼づいて「これ!」と決めるわけでしょ。そうでなきゃ自分の決断だとは言えない。だってサイコロ振って3の目が出たことに責任なんかとれないもの。
ということは、自由意志ってのはつまり完全になんでもありではなくて、それまでの自分を形作ってきた経験なり努力なりに縛られてないと本当の意味での責任のとれる自由意志じゃないんじゃないか。でも、ということは自由意志だと思ってるものは、何か過去の条件付けの結果でしかなくて、つまりはホントは自由じゃないってことになるのか?
そしてもう一段。こう考えてきて、いい加減うんざりして、これはやっぱ自由意志っていう考え方自体が変なんじゃないかと思う人もいる。自由意志なんかないんだ、すべては宿命だか業だか条件付けだかで決まってるんだ、と思うとたいへんすっきりする。やあよかったね……と思ったところでそろそろ昼飯の時間だ。さあ何を食べに行こうか? そう考えたところであなたはハツと気がつく。あたしには自由意志なんかないんだから、これは宿命だか条件付けだかが勝手に決めてくれるのを待てばいいじゃないか! そう思って、何やら外のものが方向を決めてくれるのをひたすら待っていると、何も起きない。どんどんおなかがすいてくるだけだ。これはかなわん、手近にコンビニで唐揚げ弁当を買おう、と自分が意志決定して行勤しないと、何も起きない。実際の人生で、ぼくたちはいろんな決断を、かなりの意志の力を使って「よいこらしょ」と毎日やっている。時に、そうでなく思えることもある。後から考えて、自分の自由な意志決定だと思っていたものが、単にいいように操られていたことがわかる場合もあるし、また自分の決断だと思っていたものが、何らかの宿命に翻弄されていただけのような気がすることもある。でも、いまおまえはどうするのか、と言われたときには、自分の由由意志らしきもので決断を下すしかない。すべては運命ではあっても、多くの人は自分の状況を改善しようという努力をやめることができない。それもまた決定済の宿命なのである、と納得できる人は、実はなかなかいない。自分は明らかに状況を変えるべく、意志決定と努力をしているのだ、という事実と、自由意志ってのは存在しないんだ、という理屈とを共存させられる人はまずいない。
デネットは言う。自由はちゃんと存在するんだ、と。もちろん完全な自由なんかないけれど、でもだんだん自由が増す方向に生物はどんどん進んできた。自由意志はあるし、それは進化論の中にきちんと位置づけられる。これまで述べてきたような、一見矛盾らしきものも、実は矛盾でもなんでもないのだ。
それをきちんと示して進ぜよう、と。どうだい、なかなか剛気じゃございませんか。
cデネットってだあれ?
こんな本を書いているデネットってだあれ? うん、この人は一応哲学者だ。でも、そこらの普通のテツガクシャどもとはちょっとちがう。この業界で多くの人たちがやってるのは「アリストテレス後期哲学における自己概念がどーたらこーたら」「デカルト的な心身二元論が云々」という、一般人にはまったくどうでもいい内輪の重箱の隅つつきあいみたいな話だ。その間に科学はいろいろ進歩していて、人工知能やコンピュータや進化論はどんどん新しい知見や問題を提起しつつある。でもテツガクシャたちの多くは、それに対して何も言えないか、あるいは自分の仕事がなくなるんじゃないかと不安がってなにやらくだらない神秘主義をふりかざしてみせるばかり(ぼくはソーカル&ブリクモン『知の欺隔』でさんざんコケにされたポモ哲学というのは、最終的にはこの神秘主義の最後のあがきだと思っている)。
哲学で扱っていたはずの道徳だの魂だの倫理だの、といった問題について、総合的な視点からおもしろい本や議論を展開している人といえば、今やほとんどが自然科学方面の人か経済学方面の人になってしまっている。
その数少ない例外が、このデネットだ。かれの基本的立場は本書でも説明されているけれど、自然主義だ。多くのテツガクシャどもは、哲学ってのが自然科学の上にあるという変な思い上がりを抱いている。デネットにはそういう思い上がりはない。かれもテツガクシャ的な重箱の隅つつきはやるけれど、でもその際も重箱の全体像に気を配ってくれる。その重箱としてかれは自然科学の基礎をもった哲学を構築しよう、という素直な(それ故に野心的な)考えを抱いていて、その過程で一般人がふつうに思う哲学的な疑問ー意識ってなに、とか進化論って変じゃないの、とかーをきっちり扱おうとしている。
この本でもよく引用されている『解明される意識』や『ダーウィンの危険な思想』なんかで、かれはくどいくらいそれをやっている。
そしてデネットの自然主義は、余人の追求を許さないくらいの筋金入りだ。一部の自然科学者ですら、自然科学的な研究で見えてきたもの(あるいは見えてきそうなもの)にビビって、変なオカルトに走りたがる。心脳問題という、ぼくから見るとくだらない問題がある。心で感じていることが、脳の働きだけで出てくるなんて信じられない、というだけの何の根拠もないヨタだとしかぼくには思えないんだけど、そんな話をマゾに論じている連中はたくさんいる。こういうことを唱える人々はすぐに、脳(や肉体)以外の「心」ってのがどっかにあるんじゃないか、みたいなオカルト神秘主義話をしたがる。デネットは、テツガクシャのくせにこの手の話を一切否定するだけの覇気と、否定だけでなくその自然科学的な立場に立った哲学構築を実際にやるだけの知力と、それを一般向けに説明する倒れそうなほど分厚い本をたくさん書くだけの体力をも備えている。
そのデネットが、自由意志という大きな問題に取り組んだのが、二〇〇五年現在で最新作である本書だ。
d せっかちな人のための要約Part1−−進化する自由
さて、本書の議論は、必ずしも見通しがよくはない。2章や3章で、実践理性機構がどうしたこうしたといってるのは、自由と何の関係があるの? なぜ途中で道徳や協力の誕生・発達の議論が延々続いてるわけ? それって自由と関係なくない?
はい、それは実にごもっともな疑問。本書の多くの部分は、実は必ずしもデネットの中心的な主張とは直接の関係がなかったりするのだ。もちろんそうした議論は、それ自体としておもしろいんだけれど、でも基本的な論点を理解するためには、何度か繰り返して読まなきや無理だろう。とはいえ、こんだけ分厚い本だと繰り返し読めと言われましてもっらいよねえ。結局のところ、本書のデネットの主張って何かの? しょうがない。ぼくがまとめてあげよう。実はそれは、一行で要約できるのだ。こんな具合!
−
●自由とはシミュレーションのツールである。
簡単でしょ。でも、これだけでうなずく人はいないだろうから、ちょっと説明するのだ。
d−1 進化する自由
昔々、モノは何やら岩とか海とか水たまりとかぬるぬるしたものとか雲とか、なんだかんだでただのモノでしかなかった。別に何か「する」わけじゃない。単に「ある」だけの存在だ。適当にバラバラになったり、くっついたりしたけれど、別にそれは何か意図や狙いがあったわけじゃない。なんかそうなっただけだった。これは別に、議論の余地があることじゃないだろう。
でも、そうするうちに「ある」中でも他より長持ちするものが出てきた。それは最初のうちは、へッドホンのコードを丸めたときにほどけやすい結び目とほどけにくい結び目ができる程度の偶然だった。
たまたまほどけにくい結び目になったものは、その形が長く続く、というだけ。でもそれが進むにつれて、なかなか壊れずにある一定のまとまりをもっていつまでも動いている、モノの塊みたいなものも出てきた。だんだんそういうまとまりのあるモノは増える。それが続くうちに、自己複製したりするモノも出てきて、そういう塊はますます増える。
そしてそのうち、いろんな突然変異を経て、中には周辺の環境に反応して動くようなモノが出てくる。
光が遮られると、バタバタと触手をふりまわすようなもの、とか。そういうモノのまとまりは、他のモノのまとまりに比べて長生きする。何やら障害物が接近してきて光を遮ったときに、バタバタ動く触手でそれをはたきおとせるからだ。あるいは何か変わったことがあると逃げてもいい。これがデネットの大騒ぎする、回避の誕生だ。この段階だと、まだ生物と呼べるかどうかもわからない。そこらの自動ドアやガキの落とし穴程度の代物だったりするけれど、でもそれが大きな進歩なのはまちがいない。
それが発展するうちに、生き物らしきものが出てきて、それがさらに発展すると遺伝子を持った生物になる。動くし、ある程度は自分で自分を修理もできる。突然変異によって獲得した形質を、遺伝によって次代に伝えることもできるし、有性生殖できるようになったら、生殖段階ごとにオスとメスの遺伝子をどう組み合わせるかという点て、すさまじくいろいろ実験できるようになる。これも大きな進歩だ。
ラッキーな突然変異をいつまでも持つ必要はない。生殖のたびに新しいシミュレーション(というより実地の実験)が行われるわけだ。有利な突然変異やゲノムの組み合わせが起きたら、それはゲノムに固定されて(あるいは環境要因を経て)次世代に伝えられる。これまでは、偶然に都合のいい組み合わせが毎回できるのを持つしかなかったけれど、これでそれがずっと維持しやすくなった。
で、ここらへんからやっと本題に入る。いままでは、まったくランダムな突然変異が遺伝子に生じる→新しい形質→現実世界でテスト→一〇〇億に一つの確率で有利なら生き延びるけど、それ以外はみんなくたばる、というプロセスで進化が進んできたけれど、だんだん遺伝子以外の形で情報を記録する仕組みが出てきた。飛んで火に入る夏の虫は、何千回それを繰り返してもどんどん火に飛び込んで死んでしまう。バカだね。でもイヌやネコくらいになると「ここ以外のところでションベンする→殴られる」というのを記憶にとどめて、それに基づいて自分の行動を変化させられるようになる。これまでは、いろいろ突然変異が起きて、「ここ以外でションベンしない遺伝子の組み合わせ」というのができて、それが後生に伝えられるまではそんな行動パターンは長続きしなかった。でも、記憶の発達で、遺伝子を経由しなくても行動変化ができるようになった。
ここで「自由」の萌芽がある。ここで述べているのは、パブロフの犬みたいな条件付けではある。でも、それまでの動物は一〇〇〇回教えても、遺伝子の命令通りにしか動けなかった。後天的な条件付けが可能だ、というのは行動の幅がすさまじく広がったということでもある。生物はこの段階で、遺伝子やその他すり込みの通りに動くか、あるいは後天的な条件付けに従うか、という選択の余地を持ち始めている。そしてそれは、実際にやってみてその結果を利用する、という1番原始的なシミュレーションを可能にしていて、それができるおかけで環境への柔軟な適応も可能になり、危険を回避したりして長生きできるようになった。
そして、ここらでやっと自由は本格化する。次のステップでは、実際にやってみて罰やエサをもらわなくても、いろんなことを自分の頭の中でシミュレーションできるようになる。条件付けではない、価値判断みたいなのが出てくる。これはサルくらいから本格的に生じるらしい。ああすればこうっなって、こうすればああなる、というを計算して、それを自分の行動選択に反映できるようになる。これは大変に効率がいい。これまでは「ああすればこうなる」こうすれはああなる」というのは、実際にやってみて、それが失敗につながる道だったらその道に向かったものが全員死ぬか、少なくとも何度か痛い目にあうことで各種の選択肢が棄却されるしかなかった。でも、頭の中であれこれシミュレーションできるようになると、いちいち死ななくてもいいし、遺伝子に焼き込まれるのを持たなくてもいいし、痛い目にあわずにもすむ。そしてそれで生き延びる仲間も増えるんだから、いい話じゃないか。
でも、頭の中でシミュレーションするだけなの? 自由ってそんなもんじゃないでしよ? 実際に行動するのは? うん、その通り。でも、ここで大きなポイントがある。現実世界は複雑だ。だから完璧なシミュレーションは不可能だ。多くの場合、どんなスーパーコンピュータをもってしても、神様や仏様をもってしても、将来のことをきちんとシミュレーションなんかできない。できても、時間とコストがかかりすぎる。実際にやってみちゃうのが一番手っ取り早くて安上がりな「シミュレーション」であることも多いのだ。文中には、選手の身体検査だけで終わるテニスの試合、という例があがっている。
身体検査結果をつきあわせれば、A選手ではB選手に勝てない、というのは一年かければ分析可能かもしれない。でも、数時間で実際に試合をやってみれば、ずっとすばやく確実な結果が得られる。頭の中のシミュレーションと、実際にやってみるシミュレーションとを組み合わせることで、生物はいちばん効率のいい形でいろんな可能性を試し、使える方策を自分のものにして、もっと生き延びられるようになる。
さらに、そのシミュレーションをもっと高度化したのがコミュニケーションの誕生だ。みんなが「実際にやってみる」ならそれは前と何も変わらないけれど、やってみたシミュレーション結果を伝えて共有して比較できれば、種や群全体としての可能性はもっと増える。自分のやったシミュレーションを他人のやつと比較するには、自分を他人と並べて考えるための「自分」という意識が必要になる。これが自意識の誕生だ。自意識は、コミュニケーションを行い、シミュレーションを高度化する(つまり自由を増す)ためのツールだ。さらに、コミュニケーションにより協力(またはだましたり隠したり先を読んだり)できるようになれば、いろんなシチュエーションで取れる選択肢も増える。つまりは自由が増えたことになる。さらに、各種のツールの進歩に伴って、シミュレーションも目先だけにとどまらなくなる。長期的な約束をするとか、その約束を守るやつかどうか判断する能力とか、互恵的、長期的なメリットの判断がだんだんできるようになる。それを永続化させるための仕掛けもできる。道徳意識とか良心とかだ。このプロセスは進化論的にかなり裏付けられている。一部のサルはすでに自分をモデル化して、他のサルのシミュレーション結果を学習したり(たとえば海水でイモを洗うニホンザルの話はみんな知っているだろう)だましたり隠したり、という行動ができる。人はそこからさらに進化したわけだ。そうした協力行動の進化が実際に可能だということは、コンピュータモデルでも検証できている。
そして人はいまや、単純なコミュニケーションや協力を組み合わせることで、もっと高度なシミュレーションができるようになっている。科学だってその一部だ。そしてそれにより自分自身を縛っていた制約‘環境的な制約、遺伝的な制約―すら変えて、そうした条件からの自由を実現しつつある。変えられなくても、補えるようになっている。近視のぼくが眼鏡でそれを補うのは、肉体・遺伝的制約からの自由を獲得したことなのだ。こうやって自由はどんどん拡大しているし、それによって自己保存の可能性もさらに拡大している。
これがデネットの言う、自由の進化だ。
これだけ。短ーい。わかりやすーい……と普通の人は思うはずなんだけれど、でも、一部の人はこの議論の根本のところが理解できない、というか積極的に反発を感じるようだ。何人かと話をして、ぼくはその原因がわかったような気がするので、ちょっと説明しておこう。
dー2 自由とは、自由を享受する能力である
ここで述べた話に反発する人たちは、自由というのが一種の能力として扱われていることに反発するらしい。かれらにとって自由というのは、能力とは関係なく存在すべき天与のものだからだ。能力があろうとなかろうと、盲人にも何かを見る自由はあるんだ、男にだって子供を出産する自由はあるはず(@モンティパイソン)だ、という具合だ。たぶんこれは、法律で自由を保証するなんていう発想の原因でもあり、また一部の結果でもある。
でも、実際にはこれはかなり無意味な議論だ。享受する能力を伴わない自由なんてのは、実質的に存在しないのだ。だれがどう「保証」なんかしようとも。
だって考えてみてよ。ぼくはいま、目玉焼きを食いながらこれを書いている。さてこの目玉焼きの分子が勝手に組み変わって生命体となり、突如ぼくと会話を始めちゃいけない道理はない。従って、目玉焼きには口をきく自申がある、と言えなくもない。でも、そんなことは言うだけ無駄だ。だって、できないんだもん。その自由があることにしてもいいけど、それが行使されることは決してない。なら、そんな自由が「ある」と考えるのは意味がなかろう。自由を享受するには、それを可能にするだけの物質的な裏付け、設計・能力的な裏付け、時間・エネルギー的な奥付けが必要だし、それが整うことこそが、その自由が生じたということなのだ。デネットの議論の大前提にはこういう認識がある。
もちろん、これは多くの人には受け入れがたい発想だろう。自由ってのはそれ自体として何やらふわふわ漂っている、能力その他とは関係ないもの、として捉えるようなすり込みを受けてきているから。
そういう発想の人は、デネットのこの議論が理解できないだろう。かわいそうに。でもすべての人に同じ自由がある、というのは、民主主義教の平等イデオロギーからくるお題目でしかない。ぼくにはできないことがあなたにはできる。それがつまりはぼくとあなたの自由のちがいなのだ。いやちがわないというあなたは、石ころにも自分と同じ自由があると言い切れるか? そこまで言うんから、ぼくはもう何も言いませんがぁ、でもたいがいの人はそこまで発狂してないでしょう。ちなみに、憲法とかでみんなに同じだけの自由を保証しているのは、いちいちそんなのを測定する手間がメンドーなのと、人間の自由享受能力は生涯一定ではなく、運や努力や技術でそれがかなり変動するためだ。だが、その享受能力を拡大する力のない動物にも、人間並みの権利だの自由だのがあるとかいう間技けな議論を真顔で主張する人々は、まさにこの自由とか権利とかいうのが天から降ってくるというお題目に頭を冒されているにすぎない、とぼくは思う。
e せっかちな人のための要約Part2ー自由意志否定論への反駁
で、わかった? じゃあもう本文読まなくていいじゃん、だって? そうは問屋がなんとやら。だって考えてごらん。これだけで述べぎれるなら、なぜデネットはそうしないの? どうして本書はこんなに長いの? さらにぱらぱら見ていると、決定論がどうしたとか、先のまとめにはまるで出てこない話が+延々展開されてるのは何? 山形、だいじなところを端折ってない? だいたい、デネットにできなかったことを、なんて山形があっさりできるわけ?
最後の質問の答えは簡単だ。それはぼくが無法に頭がいいからだ。じゃあ、デネットが長ったらしく書いているのは、デネットが山形より数段頭が悪いからってこと?
うlん、その答えは、ほんのちょっとイエス、でもほとんどノlだ。なんといっても、この議論の流れを考えたのはデネットにはちがいなくて、ぼくはそれを要領よくまとめただけなんだから、やっぱデネットは圧倒的にえらいのである。問題は、デネットが哲学者だってことだ。だから、哲学業界的な目配せや議論にしょっちゅう話がとぶ。世間的には無意味もいいところだけど、哲学業界内部でぱずいぶん議論されているような話というのはいくらもある(というよりそればっかですな)。その分、本はどんどん長くなる。
そしてそれ以上に重要な点。デネットは本書で上記の基本的な議論をきっちり述べるよりずっと熱心にやっていることがあるのだ。それは自由意志を否定する各種の議論をつぶすことだ。ついでに、自由意志かおるという他の議論もいちいちつぶしてくれる。それをやりすぎているが故に、本書はずいぶんと見通しが悪くなっている。まあ脱線が多くて必要以上にふくれあがり見通しが悪くなるのは、デネットのあらゆる本に共通する欠点ではあるのだけれど。
ぼくたちが自由でない、自由意志なんかない、という議論はざっと以下のようなものだ。
物理学的なもの(ラプラスの悪魔議論) 世界は原子とか素粒子とかでできている。それらの動きはすべて物理法則で決まっている。ならば、世の中で起こることは、ぼくが何を感じ、何を考え、何を選ぶかも決まってるんじゃないか。ぼくが自分の意志で選んだと思っていることも、実はいろんな素粒子の動きからくる必然的な結果でしかなくて、ぼくの「自由意志」なんてものが入り込む余地はなかったんじゃないか?
生物学的なもの(利己的遺伝子) 生物学者のリチャード・ドーキンスの説だと、生物は遺伝子の乗り物でしかない。遺伝子は、自分がなるべくたくさん残ろうとして生物をあれこれ操る。協力とか愛とか自己犠牲とかも、実は遺伝子が自分のコピーをなるべくたくさん残そうとしてヒトにやらせているだけのことで、ぼくが自由意志だと思ってるものは、実は単に遺伝子に操られてるだけじゃないのか?
疑似生物学的なもの(ミーム説) 同じくドーキンスが提唱した概念に、ミームがある。小説や映画の「リング」を見た人なら知っているだろう。ある思想や考えやアイデアも、遺伝子と同じように、なるべく自分の複製をたくさん残そうとする。ぼくが「デネットの新著はおもしろいよl」と人に宣伝して、翻訳出しましょうと出版社の人に言ったりするのは、実はぼくの自由意志なんかじゃなくて、デネットの本に書かれたミームが、自分の複製をたくさん残そうとしてぼくを操ってるだけじゃないの?
遺伝・環境要因的なもの(条件付け説) 人のいろんな特性は、遺伝的に決まったりする部分も多いし、環境的に決まっちゃう部分も多い。ぼくがかけっこの世界記録を出せないのはかなりの部分が遺伝要囚だ。そじて育ちが悪くて犯罪者になりました、という言い訳はしょっちゅうきく。これは、自由意志がまるでないということじゃないけれど、でもそれがかなり制約されているのほまちがいないんじゃないの?
脳科学的なもの(ユーザイリュージョン説) 最近の脳科学の研究で、人が何か行動するとき、「行動しよう」と思う少し前から、脳の中ではその行動の準備が始まっていることがわかった。自分が自分の意志で行動を起こすわけじゃなくて、行動が何か湧いて出てきて、自由意志は後からそれを追認して、なんか自分で思いついたみたいに思ってるだけでは?
デネットはこれらについて、本書でくどくしつこく反論を書く。簡単なのは、遺伝・環境要因だ。遺伝や環境で決まる部分もあるけれど、でも偶然に左右される部分がかなり多いことはすでに示されているし、さらに人間は道具や機械やクスリや努力で、そうした部分を補ったり変えたりできる。別にそれですべて決まるわけじゃない。それで決まる部分があるから自由意志はない、と論じるのは大げさだ。
ミームに左右されるから自由意志がないというのも、バカげた発想だ。寒いから服を着るというミームがあるとき世界中に広がりました、という言い方だってできる。でもそれは、寒いときに服を着るというのが優れた発想だというのを人々が理解して採用しました、というのとまったく同じことだ。人は脈絡なしにミームに感染するわけじゃない。あるミームを採用することがいいことかどうか判断して、それを選択的に導入する(もちろん、ある種の熱狂が判断抜きでワッと広まることはあるので、これがすべてではないだろうけれど)。その判断と選択的導入ってのはまさに自由意志だ。そしてそのミームってのは、本当に自分とは別の何かなの? 人は怒りにとらわれたり、絶望にとらわれたりするけれど、それはぼくたちが怒りミームや絶望ミームにコントロールされているの? その怒りや絶望が自分とは関係なく存在していて、あるとき風邪をひくみたいにぼくたちは何の脈絡もなしに怒りや絶望に襲われるわけ? ちがうでしょう。ぼくたちが怒るときには怒る理由があるし、絶望には絶望の理由がある。
その怒りや絶望も含めて自分なんでしょ。
そしてこの理屈が理解できるなら、利己的遺伝子論がぼくたちの自由意志の否定にならないこともわかるはずだ。あなたという人物、そしてそのあなたの行う選択をあなたのものにしているのは、これまでの生まれや経験を通じて培われてきたものの積み重ねたんでしょう。あなたはあなたを形作る利己的遺伝子やミームから独立した存在ではあり得ない。バカな自分探しの連中じゃあるまいし、自分の遺伝子や経験や学習してきたいろんな考えと切り離された「自分」なんてのがどっかにあるとても? 「砂糖というのは甘さという自己複笑子が自分を増やそうとする戦略に操られているにすぎないのだ」とか「コンピュータとは計算能力という自己複製子の乗り物だ」なんていう言い方は、できなくはないだろう。でもそれじゃあ甘さと独立した砂糖の本質があると思う? 計算能力と切り離されたコンピュータの本質があると思う? エクセルは、遺伝子コードならぬコンピュータのコードによって操られているの? コードそのものがエクセルでもあるんでしょ。あるいはカマキリは徹頭徹尾、本能に操られている存在だ。でもそれじゃあ、本能と切り離されたところに、それに操られるカマキリの本質みたいなのがあると思う? その本能まで含めてカマキリでしょう。人間だって同じだ。
脳科学的な議論も、最近はあちこちでもてはやされているけれど、デネットはこれを第8章で徹底的に批判する。要するに、意識的な決断が意識に認識されるまでにだってちょっとは時間がかかるんだから、決断より先に行動が起きているように見えるのは、その分の遅れが検出されてるだけじゃないの、ということだ。意識というのは一枚岩じゃなくて、いろんなモジュールが競合しているような存在なんだから、モジュールの間で多少の差がでるのは当然だ。スポーツや格闘技では、いろんな行動が反射的に(つまり意識を経由せずに)できるように意識的に自分をトレーニングしたりする。つまりすべての行動が「意識による決断」↓「行動」をいうパターンを毎回とるわけじゃない。だからこの話だって、おもしろいけれど自由意志の否定にはならない (蛇足ながら、この8章はすばらしい章なのだ。この手の哲学本で、引用とはいえ裸のネーチャンが人体標本以外の形で出てきてサービスしてくれる本が他にどこにあるわ?)
そして……いちばん面倒でややこしく、わかりにくいのが最初のところだ。
これにはいくつかレベルがある。素粒子や原子は生き物じゃないから、何かを「する」ことぱないけど、ある程度以上それがまとまってくると、人はそれを行為者として認識し、何かを「する」ようになる。自由ってのは「する」レベルで初めて問題になることだから、「する」という概念が適用できない素粒子レベルの話から自由意志があるとかないとか言ってもしようがない、というのが第一の議論。素粒子レベルでは、「人」とか「わかし」とかいう概念も意味がない。「わたし」の自由を考えたいなら、「わたし」というのが意味を持つレベルで考える必要がある。それは素粒子的な決定論の支配する世界とはレベルがちがうのだ、とデネットは述べる。ライフゲームみたいな単純化した世界でも、個別の升目がチカチカしているだけのレベルと、あるまとまりをもった「グライダー」だの「フラッシャー」だのを考えるレベルとではちがっているじゃないか、と。
またもう一つの議論は、確かに世の中は原子の動きとかで決まっちゃっている決定論的なものかもしれないけど、どう決定されているかはぼくたちには絶対にわからんのだ、ということ。最悪、いま成立している物理法則が明日には一変する可能性だってある。そこまでいかなくても、いろんな条件が複雑にからみあった世界は、未来が決定されているにしても、どう決定されているかはわからない。ぼくたちにできる最高の戦略は、とにかくわかる範囲でいちばん害を避けて有利な結果となりそうな選択肢を選ぶことしかない、ということだ。そのとき選ぶものは決定されているのかもしれないけれど、どう決定されているかわからない以上、それを心配したところで何か意味はあるの? 「決定論と不可避性はちがう」というデネットの主張はそういう意味だ(とはいえ、これは本書でも実にわかりにくい。補足しておくと、デネットの議論では決定論というのは世界を外から見る神様の視点だ。可避/不可避というのは、その中でうろうろするぼくたちを含めた行為者の視点だ。神様の視点から見れば、やっぱり両者は同じになってしまう。それがわかりにくさの原因になっている)。実際に、世の中の生物を見れぱ、限られた情報を有効に使って対応できるものがいちばん繁栄していて、宿命論に任せて何もしない存在はとっくに滅びてる。 (これ以外に、一部の自由意志肯定論に対する批判なんてのもある(たとえば4章)けれど、議論としてもかなり細かいのでここではまとめ切れない。人間の意識や自由意志が、なにやら量子論的な非決定性と関連してるんじゃないかというロジャー・ペンローズの議論に魅力を感じる人は、読んでみるとおもしろいかもしれない。)
そしてこれを根拠にデネットは、自由に伴う責任について議論を進める。人の行動や意志は、完璧ではないにせよ、相当部分が自分の意志で自由に決められるようになっている。そしてその自由がシミュレーションツールとして役にたつためには、選択の結果がその選択者にきちんと反映されることで、その選択の善し悪しがきちんと判断できるようにならなくてはならない。自分の選択の結果を自分で引き受けるというのは、つまり自分の選択の責任をとる、ということだ。短期的には、責任逃れをするほうが得かもしれない。でも人間の協力や感情、そしてそれに基づく社会や文化は、責任逃れのフリーライダーが長期的には不利となって滅び、責任を引き受ける自由な行為者が栄えるように進化してきた。自由に伴う責任は、自由というシミュレーションを有効に機能させる仕掛けとしてこれまた自由と共進化してきたものなのだ。 そして人類は、これまで不自由に甘んじるしかなかった部分 一近視や病気を含む肉体的な条件や各種環境要因一 も技術によりますます解放できるようになり、自由を拡大し、それに伴う責任も拡大させた。でも、いまの人類は自分の自由にビビって、変な退行ラッダイト嗜好が一部で見られるようになっている。そうした動きは遺伝子操作や薬物療法など、人間の持つ不自由を減らしてさらなる選択の自由(と責任)をもたらす発展を否定しようとし、ひどい時には(低級なポストモダン論者を含め)現在すでに得られている知識 −そしてそこからくる自由と責任’−』すら否定しようとする。これがデネットの言う「人類の自由はもろいし、保護しなければ壊れてしまう」ということだ。安易なラッダイトや無知礼賛に流されてはいけない。あらゆる知識、特に科学は人類を解放し、さらなる自由(と責任)をもたらす。こそが、自然の生み出したシミュレーションツールとしての自由を活用するということであり、自然が人類に託した責任に応えるということなのだ。これがデネットの議論だ。
f なぜ本書の議論があなたにはピンとこな
いのか
ぼくはデネットの議論を一応は理解してい
る。ただ、完全に納得しきったわけじゃない
。本書には、
デネットに反論する役としてコンラッドくん
というのが出てきて、あれこれつっこみを入
れるのだけれ
ど、こいつが実になまぬるい。もっとつっこ
みどころがあるだろうが!
たとえばさっき出てきた、ラプラスの悪魔
的な議論への反論。原子のレベルではどうあ
れ、自由って
のはもっとでかい「する」存在のいるレベル
でないと意味がないから、原子論的な決定論
を適用して自
由を云々するのは無意味だ、という話なんだ
けれど、これって概念レベルのちがいと言い
つつ、ことば
の定義をこねくりまわすことでごまかしてい
る印象は何度読んでも残る。また将来の状態
は、決まって
るかもしれないけれど、どう決まってるかわ
からないからやっぱり努力しなきゃいけない
という議論。
この話は一理ある。でも最後の最後の結末ま
でわかれ、個別素粒子レベルまで厳密にわか
れと言ったら
無理かもしれないけれど、ぼくたちが粗雑な
シミュレーションで五手先までしか読めない
のを十手先まで読める存在くらいだったらいるかもしれな
い。デネットの議論はそれでも成立するだろ
うか。
また、この結論がずいぶんつまんないこと
にもご注意。これって「人事を尽くして天命を持て」というのを小難しく言ってるだけじゃないの?
天命は決まってるけれど、それがどう出るかはわからんから人事を尽くしておけ、というわけだ。つまらない結論は、それなりにもっともらしくはある。そしてまあ、現実問題としてそれしか人間としてはやりようがないというのは反論のしようがない。でも、それで何か新しいことがわかった気がしないというのも事実だ。
こうした結論のつまんなさは、他にもある。本書のなかで「オースティンのパット」という話が延々検討されている。どっかの哲学者がゴルフのコンペでパットを外して、悔しがって考えているのだ。
「あのパットを決めてたら!」さて、それは実際に可能だっただろうか? もちろん、こういうことを考えたい気持ちはわからないでもない。「あ
のとき青いピルを選んでさえいたら」と思うことはあるし、またそれについて「いや、あれはおれの宿命だったんだからあれしかなかったんだ」と思ったりもする。
が、デネットの回答というのはこういうものだ。複雑な条件の下ではシミュレーションするより実際にやるほうがはやい。オースティンは実際にその状況でパットをやってみて外した。だからそれは狭い意味では不可能であり、他の道はなかった。っつーか、過去は変えられないんだから、そんなことは考えるだけ無駄だ。でも、広い意味で言うなら、似たような条件下で何度かパットを打たせて、ある程度のパットが決まれば、あのときもパットを決める能力があって、だから可能だったということは言える。
おしまい。
……つ、つまんねー.こむずかしい議論のあげくに出てきた答えが、こんな常識以前の話なの??
また、あまり説得力がないと思えるところもある。特に7章できわめて肯定的に紹介されている、ロバート・フランクの理論は、ぼくには話が完全にひっくり返っているように思える。この理論だと、感情というのは目先の利益にとらわれないための仕組みだ、というのだ。「一万円あげるからヤらせろ」と言われたら、多くの人はあれこれ計算する以前に怒って「一億円つまれたって誰があんたなんかと」とつっぱねる。目先の利益だけを考えれば、やっちゃったほうが(特に一億円もらえるなら)合理的なんだけれど、怒るとその短期的合理性を敢えて無視できるから、自分の評判の維持も含めた長期的な合理性をとることができるんだ、という理屈だ。こうやって感情という機能を発達させたが故に、人は短期的な利益への執着を乗り越えて、長期的な合理性に基づく意志決定ができるんだ、というわけね。そしてさらに、まわりの人はそいつが感情的なのを見て「あ、目先の計算にとらわれないやつだ」と思って信用するようになるんだって。
これ、一読して変だと思わない? 普通は感情って、むしろ長期的な合理性を無視して目先の判断に目がくらむ方向に効くほうが圧倒的に多いんじゃないの? カッとなって殺しちゃいました、とか、出来心で万引きしました、とか。感情的になるな、というのは普通は目の前の話にとびついちゃいけませんよってことでしょう。短期が感情で、長期
が理性なんじゃない? フランクの議論は完全に逆じゃないの? 実際問題として、長期的な関係をだれかと構築しようとするとき、敢えて感情的な人を選ぶか?
これは場合によるかもしれない。確かにそういうことがないとは言わない。感情的な人が、人情に篤いやつとして評価されるとか。目先の利益を度外視してまで仁義を守ったり恩義を忘れなかったりする人が賞賛されるケースもある。宗教団体用のオルグであれば、きちんと理性的に判断できるより、いったん情緒的に方向性を固定してやったらそこから絶対に逸脱できないバカのほうが、組織構築的にはいいことだってある。単純な約束問題の解決策としてならありかもしれない。でもそれは長期的な合理性を取ることになっているの?
ただしそういう細かい疑問点はあるにしても、本書の試みがきわめて野心的なこと、そして大粋でその試みに成功していることはまちがいない。
自由意志の進化を、原子レベルから説き起こし、同時に自由意志と関連した責任の問題についても一定の答えを出している。自由意志を唯物的、生物学的に説明できるなんてこと自体、そもそも多くの人には思いつかないことだ。これは本書の掛け値なしにすごいところだ。しかしながら、本書の議論を聞いた多くの人が(いや実際には、ぼくがちょっと議論した七人すべてが)必ずしも納得しなかったのも事実。その納得いかない部分の一部は、すでに先に挙げたようないくつかのポイントなのだけれど、それ以上に本書の論点が根本的にちがう、と思っ
た人が結構いた。読者の中にもそれを感じている人がいる はずだ。ある人の反応をほぼそのまま書くと ーー
●自由ってのは本能のままに行動できることなんじゃないの? 本書は、社会とか長期的配慮とかで本能のままに行動できなくなってしまうことを自由だと言ってるけど、それって逆じゃないの?
本書の議論が人によってはピンとこない理由の大きな部分はここにある。本書における自由というのは、よりよい選択を行えるようになる、ということだ。よりよいってのは、つまり動用のいちばん高い、という話だ。だからこの話をもうちょっと知的に言い換えてみるとこんな具合だー
●各種の状況において動用を最大化する選択は一つしかないはずだ。ということは、デネトの「自由」ってのは、それ以外の選択肢を実質的にあり得なくするものじゃないのか? 自由ってのは選択肢を増やすはずなのに、かれの理想とする自由の行き着く先というのは選択肢が一つしかない究極の不自由世界じゃないの?
これはグランジ/オルタナ系ロックのファンにはおなじみの発想だし、ドストイエフスキー『地下生活者の手記』における、2+2=4でしかな
いってのが許せんという話でもあるし、ハックスリー『すぱらしき新世界』における野蛮人の、不幸になる権利、病気になる権利、惨めである権利の要求でもある。
これは別に、自虐系アーティストや反抗期の若者だけの議論じゃない。森岡正博という哲学者の一種が、『無痛文明論』という愚鈍で分厚い書物(人は往々にして、全精力を傾けた畢生の大作を書いたつもりで自分の棺桶に釘を打っていたりするのだ)で主張しているのも同じ話を極端にしたものだ。この本の中心的な議論はですな、何かをするのに痛いのと痛くないのと、どっちがいいですか
、という話だ。
そりゃほかが同じなら痛くないほうがいいですわな。いや、ちょっと追加でコストを払っても、痛くないほうがいいなあ。でも森岡は、それがけしからんとのたまう。いまの文明はみんながそういう安易で楽な選択をするので、出生前診断をして優生学的な選別をやり、障害を持った子をあらかじめ排除して社会的な差別を延命・強化させたりしちゃっ
て、かえって社会がどんどん悪化している。
だから合理的選択を排除しなくてはならない。明らかに不合理で無駄が多くて人々を苦しめることが明らかで、他にもっと合理的でコストの低い代替案があるような劣った選択肢を、敢えて選ぶようにしよう、というのがかれの議論だ。痛いのを我慢してるとだんだんそれがよくなってくるから、みんなで痛い思いをしよう! 無痛文明を否定し、苦痛文明/マゾヒスト文明をみんなで選ぼう!
さて、そういう部分かあることも認めないわけじゃない。甘やかされて育った無菌培養の人よりは、ちょっと苦労を知っている人のほうが、人格的な深みも出るし、社会のよい一員になれるんだということは言えるだろう。あるいはネットにおけるフィルタリングの議論などにもこれに類する議論はある。
人は自分の好きなものだけを見るようにフィルタソフトを設定できるけれど、そうすることで世の中の醜い部分から目を背け、社会に存在する改善すべき部分があることすら忘れてしまう。人がどう望もうと、見たくないものを見せることには社会としての価値がある。そういう例はそこそこ指摘できるだろう。
だが::間題はそれがどれだけあるのかということだ。苦痛を避けよう、楽をしようとする努力は、たいがいはいいことなのだ。それをやらなかった文明なんか、歴史上一つも存在しない。
っつーか、それはそもそもが文明レベルの話じゃない。生命すべて、そういう方向に動いている。痛みという感覚が進化の過程で考案されたのは、そういうのを避けるようにし向けるための仕掛けとしてなのだ。苦痛を維持したほうがいいという少数の状況に関する議論だって、あくまで苦痛の結果としてもっと大きく本質的な痛みを根本的に減らす努力が行われるのが前提だ。痛みそのものがいいわけじゃない。無用な痛みはどんどん回避しよう。しなくていい苦労はどんどん排除しよう。無痛文明化は、基本的にはいいことなのだ。そして森岡ごときがなんと言おうと、痛いのいやだ、と人が(いやイヌもネコもオケラもミミズも)思うのを避けることなんかできやしないのだ。
さらに森岡の議論が何を意味しているか考えてみよう。無痛社会をやめて苦痛社会にするというと、その苦痛を背負うのは社会のすべての人であるような印象だけれど、実は運の悪い少数の人にその苦痛は集中する。だって実際にいちばんキツい思いをするのは、非常に低いコストで避けられたはずの、身障者やその家族などの不運を背負った人たちだもの。それを増やせというわけだ。何のために? なんか得体の知れないお題目のために。その結果として負わなくてもいい不運を背負わされた人たちに対して、きみたちは本当はそういう苦労なしですんだはずなんだけれど、でも社会的なお題目のためにわれわれはきみたちに敢えてそれを背負わせました、なんてことを正面切って言える? ぼくはそんなことを平然と言えるツラの皮は持ち合わせていない。そしてそれ故に、この無痛文明論みたいな議論は有害であり、批判しているはずのものより遥かに抑圧的だ。「無痛文明はけしからん、みんなで痛いのがまんしよう(実は少数の人々が過大な痛みを負担させられるのを見殺しにしてスケープゴートにしようぜという低級なラッダイト議論でしかないんだから。
さてすでに述べたとおり、本書にはこの議論は(ほとんど)ない。なぜだろうか?
いまの話は、人間が合理的すぎるようになったらどうしようということだ。不合理な選択ができなくなったらどうしよう、という心配だ。でもデネットはそんなことはまったく心配していない。なんで好きこのんで、不合理で自分に不利なものなんか選はなきゃいけないの? デネットにとっては、不合理なものを選びたい、それを選ばずにはいられないということこそが、まさに不自由さそのものなのだ。
ラッダイト論者の喜ぶ「自由」というのは、デネットにとっては不自由でしかない。それは本能とか、短期的な利益への執着、遺伝/環境その他から生じるフェチっぽい条件付け、社会や因習や面子からくる強情などに縛られ、そこから逃れられなくなっているという制約のあらわれでしかない。だからこそ、そんな話は考えるに値しないこととしてまったく心配されていないわけだ。
デネットが心配しているのは、その正反対のことだ。人間は十分に合理的ではないんじゃないか、ということだ。いまだって、それから逃れられているように見えるのは幻想ではないのか。
そして将来的にもそういう判断ができるようにはならないんじゃないか。かれはそのくびきからは何とか逃れたいと思って論をつむいでいる。かれにとって、人間の持っている各種不合理性はすでに各種の方法で実証されている批判の余地のないことであり、人が合理的になりすぎるんじゃないか、なんていうのは杞憂もいいところでしかない。
では、ラッダイト議論につながる各種の気持ちは、不合理で排除されるべきものなんだろうか? いや、そうじゃない。その気持ちこそが、まさにぼくたちの自由を保証するものなのだ。ぼくたちは一枚岩じゃない。ぼくたちの中でいろんなモジュールが争っている。そしてそのモジュールが提案してくる行動の中には、ずい
ぶんと魅力的なものもある。この相手を今ここで押し倒しちゃいかがとか、くだらんことでゴネやがる目の前の客の頭をかちわってみちゃいかが、とか。そして、自分というのをどの範囲で考えるか次第で、そうした選択が合理的になる場合もあるんだから、それがそもそも思いつけているというのは人間の自由の重要な一部だ。ここが重要なところだ。合理的な選択肢が一つしかないというのはまちがっている。「自分」を考えるとき、社会や家族を含めるか、それとも生物学的な個体だけを考えるか一そうした範囲の取り方次第で合理性は変わるし、その取り方さえ自分で選べるのが人間だ。
罰を受けるから、社会的制裁があるから、恥ずかしいから何かができないのは、時にはとてもつらく悔しいことだ。そこだけ見れば、それは不自由に思えるかもしれない。でもぼくが『たかがバロウズ本。』
でも論じたことだけれど、自由は一つじゃな
くて、様々な自由が実はトレードオフの関係にある。ぼくは人生の自由の一部を会社に売り渡すことで、衣食住その他に関するかなりの自由を手に入れている。
こうした各種トレードオフが理解できて、そこから自分にとって毅大の価値があるものを選べるのがぼくたちの自由だ。動物は本能のままに動けるけれど、それは正確には「動ける」のではなくそれ以外の行動が取れないだけの話だ。衝動に身を任せてしまって後悔するのが人間であるなら、衝動に身を任せられず後悔するのも人間だ。だがその後悔や無念さは、ぼくたちが自由であること(しかも責任がとれる形で自由であること)の裏返しなのだ。そしてもちろん、前に述べた通り多くの状況では何か本当に合理的かは事前に計算しつくせない。計算するよりやってみたほうがはやい。後悔や無念の多くは、自分が行ったシミュレーション結果の評価でもある。そして本能のままに動けないから不自由だという議論は、よく聞いてみると単に、好き勝手をしたいけれどその責任はとりたくないという自堕落な感情の垂れ流しにすぎないことも多い。自分の行為に進んで責任をとることーしばらく前の流行語で言えば、自己責任から逃げないことーそこにこそ自由の基礎があり、社会と種としての人類の発展基盤があるのだ。
さて反ラッダイトのぼくは親切でフェアだから、バカなラッダイト論者にも武器をあげるのだ。デネットの議論は絶対に正しいのか? 批判の余地はないのか? もちろんそんなことはない。上で述べたような、合理性が自由を奪うという議論に説得力を感じる人はまだまだ多いはずだ。そしてそれ以外にも非常に簡単な批判の手口がある。
デネットの議論は、すでに述べたように、自由とは自由を享受する能力である、という議論だ。これは、うまくひねれば、ある種の差別を正当化するのに使える議論だ。現実的にどうやるかは教えてあげない。さらに本書の議論は、遺伝子治療や遺伝子組み替え作物、出生前診断、薬物投与、去勢、クローン、その他バカなラッダイト論者のみなさんがいちいちおぞけをふるうような各種のアレを正当化するのに使える。幼児犯罪者の去勢については、本書のなかでデネットは「別に肯定はしてなて、単に検討してみようと言ってるだけだ」という。で
も、かれがそれを検討に値するだけの価値を持つ選択肢だと考えていることは明らかだ。それ以外の各種肉体・精神改造についてもデネットは非常に肯定的だ。
向精神薬だって遺伝子治療だって、眼鏡をかけるのと大差ないことで、遺伝的・環境的制約から逃れるための自由のツールでしかない、とデネットは主張する。遺伝子工学について、デネットは本書の中でもきわめて好意的な書き方をしているどころか、絶賛だ。それは自然選択にかわる、シミュレーションの新たな段階の幕開けを告げるものであり、人間の遺伝子からの解放をもたらす自由の新段階なんだから。ぼくはそれは圧倒的に正しいことだと思うけれど、遺伝子組み換え作物に反対したりする近視眼的な人の中には、このデネットの議論すべてが、新たなテクノクラシーによる抑圧的な管理社会翼賛の反動的な議論で、自由と称しつつ不自由に貢献する資本と「帝国」の悪しき陰謀に見えるだろう。
というわけで、それを声高にいいたててデネット「批判」を展開することは十分に可能だ。デネットのやりくちは、生の本質を切り刻んで合理化しようとする、悪しき還元主義であり、真に生きることの力強さを見失わせ、いのちとこころの全体性から目を背けて人間をただの肉のかたまりにしてしまい、真の無条件の愛を否定し痛みがよろこびに転ずる体験を抑圧するものであり云々かんぬん。実にお手軽。
問題はそれが本当の意味で批判になってるか、ということだ。この手の議論は、単なる軽薄オカルティズムでしかないか、あるいはいくつかのNGワードを決めて、そこにたどりつくと思考停止してしまうだけの出来レースだ。生の本質ってなぁに?
無条件の愛って、あんた厨房ですか。身体から離れた「生命」なんてものがあるとても思ってるの? あるいは優生学というと、それだけでもう批判が終わっかつもりになる。そして優生学の何かいけないんですか、と尋ねると、ナチスがやったとかその手のくだらない話しか出てこない。あるいは、何か局所的な問題が発生することだけをあげつらって、その技術や議論すべてを否定しようとする。
それじゃぜーんぜんダメだ(と言われてわかるような人はそもそもそういう主張をしないような気もするが)。局所的な痛みを温存することが重要なら、そのほうが長期的、あるいは全体として合理的だというのをきちんと言わなきゃいけない。そしてそれを支持する議論の進め方やシミュレーションのツールも出てきた(それについても本書の中でたくさん触れられている)。いのちとかこころとかよろこびとか、なんでもひらがなにして悦に入ってりゃいいもんじゃない。ちなみに、処罰や規律におけるこうした抽象的な「魂/心」の役割については、ミシェル・フーコーがさんざん分析した。
このデネット的な魂/責任観は、フーコーの分析したような処罰のあり方にどうかかわってくるだろうか。それは、かつての身体を対象にした罰の復権につながるんじゃないかな。本書の議論は、単なる抽象議論にとどまらない大きな広がりを持っているのだ。
そしてその広い射程の最たるものが、人間の生きる意味と自然の中の位置づけの議論だ。
前出の『無痛文明論』を朝日新聞の書評欄で絶賛していたのは宮崎哲弥だった。「現代の思潮を覆う功利主義や機能理論、経済思想への徹底した批判的視座がここにはみえる」とかいうんだけどさ、見えないって、そんなもん。が、それはさておき、その宮崎哲弥は、仏教的な見地からして人の生に意味はないのでありすべての死は犬死にだ、と議論していた。かれは私信の中で、この仏数的な(というか仏教の宮崎解釈的な)見方は現代の進化論的な知見にも裏付けられている、と述べていた。
お釈迦さんは生命に目的はないと言っており、それは突然変異には(つまりは進化には)目的性や方向性はなくてランダムだ、という現代科学の知見と一致しているのである、というわけ。でも、そうじゃない。突然変異は無目的だけれど、だからってぼくたちまで無目的であるべきだってことにはならない。突然変異の無目的性は、確かにいまの人間ごときが考えつくこともできない異様な探求を可能にし、いまの生命界の多様性を作り出したけれど、それは一方で想像を絶する無駄を伴うプロセスだった。それも好きで無駄をしてたわけじゃなくて、他に手口がなかったから仕方なかっただけだ。人間はその無駄を排除できるようになりつつある。多様性を生み出すほうだって、シミュレーション技術が発達すれば十分に担保できるはずだ(いずれはね)。もはや、突然変異の無目的性の上にあぐらをかいている必要はなくなった。というより、いまやぼくたちはそこから逃れる自由を手にしてしまい、それゆえにあぐらに責任が出てきてしまったんだ。ぼくたちは遺伝子レベルの無目的性から逃れられるようになりつつある。もうお釈迦さんの議論じゃ足りないんだ。お釈迦さんはえらい人だったし、昔はかれの主張は正当だったけれど、でもいまのぼくたちはお釈迦さんの持っていなかった自由を手に入れてしまったんだから。さてその自由で何をしようか。それは(せっかく逃れることのできた)遺伝やその他の制約を再現することではないはずだ。
いま、ぼくたちは歴史の中で変な位置にいる。一〇〇年ほど前にニーチェくんが神は死んだと言ったとき、それはまだちょいとはやすぎたかもしれない。当時はせいぜい、神様のかかとをつかまえたくらいだったろう。当時の人は相変わらずいろんなものに制約されていた。でも、いまやこの議論は当時よりも中身のあるものになりつつある。そろそろ神様の首に手がかかりはじめたんじゃないかな。人間は神様(あるいは遺伝や環境等々)から与えられた宿命をたどるだけにとどまらず、自分で自分の方向性を本気で決められそうなところにきている(もう一〇〇年くらいかかるかもしれないけれど)。そのとき、ぼくたちはどっちに向かう? それを考えなきゃいけない。そしてそれを実現するための手を講じなきゃいけない。本書でデネットの言う、地球の管理人としての人間の責任、そしてこれだけの自由を与えられた人間が、他の人間たちや自然や地球に対して持つ、ノーブレス・オブリージュという発想をまじめに考えなきゃいけない。
めんどうでうっとうしい話だ。だけれど、そこから逃げること 安易なエコロジーだの各種ラッダイト議論に安住し、獲得してしまった自由を捨てることーすら、いまや責任が発生する。
かつては、それ以外の道がなかったからそこには責任はなかった。でも、いまやそれ以外の道ができてしまった。
それをないことにはできない。本書は、そういう自由と責任がわれわれに与えられてしまったこと、そしてそれが何かのまちがいで人間に与えられたパンドラの箱なんかではなく、宇宙が、自然が、地球が、生命が進化する過程のなかで必然的に生み出されたものであることさえ容赦なく描き出している。あなたにはその準備ができているだろうか。ぼくにはできていないんだが、でも、少なくともその準備を始めなきゃいけないことくらいはわかる。とる必要のない責任や、そもそもとれない責任までしょいこまないように注意は必要だけれどね。本書が読まれることで、その覚悟の必要性がわかる人が一人でも増えてくれれば、とは思うのだ。
g 謝辞その他
翻訳には、二〇〇四年九月から二〇〇五年二月までの期間のうち、実質的に二・五ヵ月ほどかかった。
既訳書の引用部分については使用に耐えるものはなるべく参照し、邦訳の該当ぺージもほぼすべて調べて記述している。訳にそんなに極端なまちが
いはないはずだが、もし何かあればご指摘い ただきたい。
わかり次第以下のURLに公開するので http://cruel.org/books/freedom/。
本書の翻訳にあたっては、一部の章につい て守岡桜氏に訳を手伝っていただいた。ありがとう。また、著者デネット氏は、いくつかの質問にすぐ答
えてくれた。ありがとう。また、本書の編集は牧野彰久氏が担当された。本書のような変わった本を、 こんな変わった訳者にやらせてくれてありが
とう。またこれをきっかけとして、本書の中で大きく取り
上げられている別の本も訳出することになったのは実に英断。こんどの本は、なんと経済学の生物学的基礎が打ち出されてしまうという驚異の本。
乞うご期待、
なのである。
二〇〇五年ニー三月 コロンボおよびアクラ/タマレにて 山形
浩生
(1)人によっては、これをティヤール・
ド・シャルダンみたいなオカルト談義か、ク
ラーク『地球幼年期の終わり』
みたいなSFだと思うかもしれない。でも、
本書がそれを物質的に位置づけてしまったこ
とについては、敬意を払う
必要がある。
ご意見はparadigm@dreamドットコムまで
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