還元主義

http://www2.biglobe.ne.jp/~shoron/process.htm

プロセス哲学の

有機体論

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1.科学と人間

 現代の自然科学において、全体論(holism)は原子論(atomism )と対立するという意味で新しいパラダイムである。システム論が登場する以前は、原子論こそが科学的探求の代名詞であった。デカルト以来の要素還元主義・分析主義に依拠する科学は、実在の究極の単位を求めることで世界の諸現象を説明できると考えたのである。そこでは主体である人間が客体である自然から独立していると考えられた。言い換えれば、人間は自然を対象として知り得る立場にあり、その知識に従って自然を制御できる立場にあると信じられたのである。

 確かにこのような信念は技術と結び付いて人間の活動を拡大した。しかし、現代ではこの信念を動揺させる事態が次々に起こっている。まずマクロな面を見れば、自然環境の破壊や巨大システム技術の限界が例に挙げられよう。例えば、食料増産のための灌漑を考えてみると、当初は砂漠を灌漑し大農園を作ることによって土地は緑化されると考えられた。しかし、無理な耕地拡大が土壌の流失と塩類の集積を招き、その結果乾燥はより進んで緑化の努力は逆に砂漠化をもたらした。このような予期せざる環境破壊は先進国、発展途上国の別なく進行している。(注1)また、原子力発電のように改良の速度が早く巨大なシステムでは、技術者はいつも未知の課題を与えられている。前述したように「制御」の前提には「知り得る」ことが必要である。従って、有限回の計算によって原子炉に生じるあらゆる運転条件とその結果が予測できるとする「理論主義」(注2)は、想定した条件(知り得る条件)を僅かでも超える事態に際して当然ながら破綻する。あらゆる予測を超えた事態が起こり得るという、原発の事故の深刻な原因がそこにある。次にミクロな面を見れば、臓器移植における免疫機構の抑制の困難を例に挙げることができよう。疾病が特定の原因から生じると考える「特定病因説」は要素還元主義の医学的表現である。この立場に立つと、移植された臓器の定着率を向上させるためには、他人の臓器を攻撃する「原因」である患者の免疫力を抑制しなければならないことになる。しかし免疫抑制剤を投与された患者は感染に対する抵抗力を失い、「細菌感染→抗菌剤投与→抵抗力低下→他の細菌に感染」という悪循環をたどって最悪の場合には全臓器不全に陥る。しかもこの場合には、抗菌剤の多用から生まれた耐性菌による感染や通常なら無害な菌が免疫力の低下した患者には致命的となる「日和見感染」など、予期し得なかった要因が介入してくるのである。

 これらの例はいずれも現代の科学技術によっては自然が制御可能でないことを示すばかりか、「科学的な知」自体の限界を示しているのではないだろうか。それは、言い換えれば、認識する主体である人間の主観によって自然界の秩序が与えられると考える「主観主義」の限界である。主体・客体の構図を超える「全体」の在り方がそこでは求められている。

 2.社会と個人

  全体論が模索されている第二の場面として「社会と個人の関わり」を考えよう。「個人」なる概念自体が科学と同様近代合理主義の産物であるが、「個人」もまた主観主義では解決できない困難に直面している。近代と共に、「主体」としての個人は、他者から独立した自立的な存在として、威厳をもって登場した。しかし、個人の独立・自由と相互の対立を許しながら、同時に一つの全体としての調和を維持するという近代の社会理念は、変更を余儀なくされつつある。一方ではイデオロギーによる方向づけを持った大きな政府が無力化し、統一よりも多様性が優先されている。また他方では個人の生活に社会システムが介入し、社会的行為の主観的意味付けまでが侵食されている。(注3)

社会は失われた統一の可能性を個人の無限の多様性の中に探し(無限の多様性とは『エントロピーの無限の増大=無秩序』の謂ではなかったか)、個人は失われた主体性をカタログの中に求めている。両者の活力はその死と裏腹である。これをボードリャールは「ちょうど国家が遅延された社会を、革命政党が遅延された革命を食って生きるように。

あれもこれも死を食って生きている。(注4)」と表現した。

 3.心と身体

  「全体」を考える第三の場面は心身問題である。我々はこれを主体・客体の構図そのものに関わる問題と呼んでもよいだろう。現代の哲学的な心身問題は分析哲学の「心的な出来事と身体的な(物理的な)出来事は同一か」という議論に収斂している観がある。

しかし切実な問題はそれ以前の極めて「近代的」なパラダイムに支配された分野から生じてきた。例えば、医学においては痛みと神経の興奮が同一であるということは、既に前提となっている。だが、脳死判定の問題はこの前提について改めて論争を引き起こしたのである。脳死をヒトの死とする場合には、少なくとも次の前提を承認しなければならない。

@「脳=精神が身体を支配する」(=「人間の生の本質は脳に局在する」)

A「心的活動は物理的原因に還元できる」

B「医師が脳の死を観察によって判定できる」(=「身体的な物理現象は客観的に観測可能である」)

 @は主観主義を推し進めれば当然行き着く結論である。しかし、身体から精神への働きかけが精神による身体の支配と同様に基本的なものであることが、身体の柔軟な可能性を探る人々の手で明らかにされつつある。(注5)

 Aは医学では「記憶の原因物質を発見する試み」などに端的に現われている立場である。これは精神を複合的作用の生み出すものと見る立場と対立するが、仮にAの立場を認めたとしてもBとAの間には飛躍がある。それは患者と医師の間に「観察」が介入することである。少なくとも自分に関しては「確かに知り得る(注6)」という西欧近代合理主義の信念は、裏返せば「他の主体に関しては根本的には十全に知り得ない」ということでもあった。厳しい条件に制約された観測を過大に信頼することで、この立場は自らが基盤とする主体・客体の構図と矛盾を起こしているのではないだろうか。

 4.ホワイトヘッド哲学の基本概念

  前述した三つの場面は、いずれも「部分に注意すれば全体を知り得るし、全体の安定が可能である」という近代合理主義の信念が揺らいでいる現場である。「知り得る」ことに対する謙虚さという点で言えば、既にハイゼンベルグが次のように述べていた。

 「自然科学はもはや観察者として自然に立ち向かうのではなく、人間と自然の相互作用の一部であることを認める。分離説明そして整理という科学的方法は、方法が対象をつかむことによって対象を変化させ、変形するということ、それゆえ方法はもはや対象から離れえないということによって課せられるその限界を知るに至る。したがって自然科学的世界像は真に自然科学的なものではなくなるのである。」(注7)

 しかし、ハイゼンベルグと同時代の科学的前提から出発しながら、科学のパラダイムを超える思想を構築したところにホワイトヘッド哲学の意義がある。ホワイトヘッドは自身の哲学を「有機体の哲学」と呼び、更に後世の研究者は彼の思想を「プロセス思想」と呼んでいる。(注8)以下、「全体観の回復」がホワイトヘッドにおいて如何に試みられているか、簡単に述べよう。もっとも「簡単に述べる」とは言っても、ホワイトヘッドの思想は簡単ではない。そこで、彼の形而上学体系は概観するに留め、彼の思想的影響に重点を置いて話を進めたい。

 ホワイトヘッドの哲学が難解なのは、何といっても独自の用語のためである。主な用語をまず説明しなければならない。

・現実的実質(actual entity): ホワイトヘッド哲学の中心概念。“the final real

things of which the world is made up と位置付けられている。(注9)世界の全ての存在の根拠は現実的実質である。物質も、我々の意識も現実的実質から成っている。

現実的実質は相互依存的であり、他の現実的実質との間で互いを反映し合い、互いを含み合っている。

・抱握(prehension):一つの現実的実質が生まれ、確定する上で、その現実的実質にとっての所与(感じ=feeling )を統一体へと統合する活動性。一つの現実的実質を成り立たせ、更にそれが次の現実的実質へと受け継がれる媒体となる。

・永遠的客体(eternal object):純粋な潜勢態であり、現実的実質の限定性は、この永遠的客体が現実的実質に実現され、例示されたものである。

・過程(process ):次の二つが「過程」と呼ばれる。

@合生(concrescense):主体がその目的(subjective aim)に向かって個々の所与(感じ=feeling )を一つの統一体へ統合していく過程。

A移行(transition):ある現実的実質が後続する現実的実質に取って替わられる過程。「客体化(objectification )の過程」とも呼ばれる。

 これらの基本概念を用いてホワイトヘッドの哲学が語られるのだが、全体論との関係からまず注目しなければならないのは、主体と客体の相対性である。一つの現実的実質は主体として所与の諸「感じ=feeling 」を取り込むが、それらが統合され、合生の過程が終わって現実的実質が完結すると、直ちにその現実的実質は他の現実的実質の所与として客体化される。新しく生まれた現実的実質は過去の現実的実質の自己超越体(superject )である。現実的実質はこうした移行を経て数珠つなぎになった生成消滅の歴史を持つのである。このようにして、物質も我々の意識も、世界を構成するものは全て決して完結していないものとして自らを超え出ていく。「生成(becoming)」に基づく、主観主義とは異なった原理がそこにある。

 勿論、ホワイトヘッドも「主体・客体」という用語を使用する時には、これを経験の基本的な構造を形成するものとして捉えている。しかし、その場合の「主体・客体」は、近代合理主義の「認識するもの・認識されるもの」を意味しているのではない。なぜなら、ホワイトヘッドの思想では、経験は我々の知が捉え得る領域よりもはるかに大きな広がりをもっているからである。

 「我々は、我々が分析できる以上に経験している。…というのは、我々は宇宙(the universe)を経験するが、その細部の微小な部分を選んで我々の意識の中で分析するからである。」(注10)

 このように、ホワイトヘッドの考える経験は、宇宙の中で様々な存在が相互に持つ有機的諸関係に基づいている。我々の認識は意識的な経験であり、高度に抽象化されたものである。ホワイトヘッドは意識的な経験と無意識的な経験を区別して「経験の契機」としての現実的実質を考え、現実的実質のレベルでの経験に相対的な主体・客体の構造を導入したのである。(注11)

 5.有機体論

  現実的実質は集まって有機体(organism)を組織する。現実的実質の集まりを結合体(nexus )と呼ぶが、有機体は秩序を伴う結合体である「社会(society )」によって成り立っている。現実的実質が客体化の連鎖によって数珠つなぎになる場合、その連鎖を通じて継承されてゆく複合的な永遠的客体がある。この永遠的客体は社会にとっての限定的性格(defining characteristic )であり、これによって秩序づけられた結合体が「社会」なのである。更に、有機体は「構造化された社会(structured society)」である。構造化された社会は「生きている社会(living society)」とも呼ばれる。構造化された社会は従属する下位的な社会を構成要素として持ち、その全体は下位的な社会との間に内的構造関係を持つ。このような社会では全体と部分が統一され、しかも全体を部分に還元することもできなければ、部分を全体に解消することもできない。これに対して「特殊化されている社会(specialized society )」がある。「特殊化されている社会」は、その安定性を支えている環境の性格が重大な変更を起こすと、存続できなくなる社会である。

 以上の定義から考えると、生物は全て高度の有機体である。そればかりではなく、全体と部分が相互に還元不可能でありながら、全体としての統一が保たれているような自然のシステムは、全て有機体である。ここにはシステム哲学で扱われる概念との構造的類似性も認められる。「全体・秩序・非還元性」の根拠は現実的実質に、「自己安定性・自己組織性」は抱握に、「重箱型階層性」は結合体の社会に、それぞれ対応すると見ることができる。(注12)そこから、ホワイトヘッドの有機体論に基づいた社会システム論的な目標も見出されるであろう。それは即ち、我々は「高度の複合性をもって構造化されていると同時に特殊化されていない社会」(注13)を求めなければならないということである。つまり、人間を下位システムとする協働システムのあるべき姿を、「生きている社会」のシステムに即して理解することができるわけである。(注14)

かくして、システムの巨大化に伴う人間と科学の間の軋轢・技術社会と個人の間の軋轢は、有機体論を方法論として取り入れる方向に向かうであろう。また、ホワイトヘッドの有機体論の論理的な構造に着目すれば、出来事(event )としての心身問題を扱う分析哲学の議論にも新しい視点を導入することができる。例えば有機体の死を出来事とプロセスの両面から検討することで、生命倫理に寄与することも考えられよう。(注15)

 6.学問の全体性

  ホワイトヘッドの哲学は確かに難解であるが、ホワイトヘッドの哲学を研究することの意味は難解な形而上学体系を理解することのみにあるのではない。むしろホワイトヘッドの思想が持つ文化哲学的側面が浮かび上がることに現代的な意義があるだろう。

 例えば、『観念の冒険』の中で、ホワイトヘッドがベンサム・コントの思想を「形而上学の放棄」と性格づけて論じている部分を検討してみよう。(注16)ホワイトヘッドによると、ベンサムの「功利主義の原理」とコントの「実証主義」は理論としての力よりも現実に働く原則として世界を支配した。そして彼らの思想の特質は「ストア的な形而上学説の拒否」「ストア派の知的な壮大さの欠如」である。これは科学におけるニュートンの業績と対応する。ニュートンは観測可能な経験的世界から神を追放し、その結果科学者にとって観測された現象についての宗教的な意味づけを気にする必要はなくなった。ホワイトヘッドはこれを「形而上学に対する科学の反逆」と呼ぶ。

 ベンサムとコントの思想は、ニュートンと同じ試みを道徳や政治の理論へ拡大するものだった。彼らは形而上学に頼らず、人類共通の道徳や政治の理念を構築しようとした。

しかし、ホワイトヘッドによればニュートンの場合の「運動法則」に当たるものを彼らは持たなかったのである。それは、社会を統一し、秩序づける原理が「情緒」だからである。なぜなら、物理法則は対象と観察者との間で何回実験を行なっても変わらないものであるが、「情緒」を法則づけるために観察者が対象としての「人間」に接する場合、「接する」という行為そのものによって観察者と相手との間には新しい関係が生じてしまうからである。従って、「情緒」が元来、プラトン哲学的な「正義」や「節制」、またキリスト教的な「愛」の形で一般化され、普遍的なものと教えられてきたことには、「情緒」の法則化が困難であるという正当な理由があったと言える。ところが、ベンサムとコントは哲学と宗教が伝統的にもっていた形而上学を否定してしまい、それと共に「情緒の法則化」の根拠も失われた。

 では、近代合理主義という共通の土台の上で科学はいかなる役割を果たしたか。ホワイトヘッドによれば、ベンサムの「最大多数の最大幸福」というスローガンには、「幸福」を数量化して考える特徴が現われている。まさにこの特徴によって様々な経済的・政治的改革が実行可能になったと言えるが、同時に、まさにこの点で科学と人間的情緒とは決定的に分裂しなければならなかったのである。科学の確実性が一度信念となると、「進化論」が経済や政治でも力を得た。近代経済学もマルクス主義も、人間と人間社会の「進化」を疑わなかった。しかし同時に、進化論は自然淘汰を経済・政治にも要求する。

それが「人類選別の崇拝」となり「劣等者の人道的絶滅」になる、とホワイトヘッドは述べる。実際、自然淘汰のアナロジーである現代の「競争社会」では、優れたものが劣ったものを支配するのは「科学的真理」であって、道徳的問題ではないと考えられる。

また、病気や障害は克服されるべきものとしての観点から捉えられ、遺伝子を操作して「将来の子孫」を「健康」にしようとしたり、受精後間もない段階で胎児の遺伝子異常を予測し、妊娠中絶によって「劣った生命」を抹殺することも現実の問題になっている。

こうした結果がベンサム・コントによる「根源的な宇宙論の原理(形而上学)の欠如」から出てくるとホワイトヘッドは予言していると言えよう。現在の学問は、どの分野においてもこうした問題と格闘しているのが現状である。(注17)「エコノミーからエコロジーへ」という「環境倫理」の模索などは、ホワイトヘッド的な発想の延長線上にあるのである。

 以上のような批判からすると、ホワイトヘッドが形而上学を重視したのは、細分化されてゆく学問に、共通の新しい原理を供給するためであると考えられる。その新しい原理とは前述した通り「生成」を中心に置くということであった。科学と宗教は今日では相容れないものとして考えられることが多いが、ホワイトヘッドの思想にはそれらを次のように統一的に捉える幅の広さがある。

 「ホワイトヘッドの『科学と近代世界』は、相対性理論と量子論がポスト近代科学の黎明を告げるものであることを示している。ホワイトヘッドの形而上学の基本的な考え方のおおくのものが、この二つの領域からとられている事は注目に値する。たとえば、相対性原理はホワイトヘッドの主著『過程と実在』の基本原理である。…要するに、古典物理学の「物的実体」と不変の枠組としての時間と空間とを、生成する諸々の出来事の相互関係の網目のなかに解体したあとで物理学の基本概念を再構成するときの基本原理を、ホワイトヘッドは相対性原理と呼んだのである。これは、「生成」を「存在」の現実態とするというかたちに形而上学的に一般化された。それゆえに、ホワイトヘッドは、たとえば宗教について語る時でも、生成の過程にある宗教を第一義的なものとし、既成宗教を派生的なものとして扱うことができたのである。」(注18)

 このような「生成」を第一義とする形而上学的一般化は、科学と宗教その他の人文諸科学との間の断絶を埋めるだけではなく、キリスト教と仏教・東洋と西洋の文化的枠組を超える交流の試み(言わば宗教を超えたエキュメニカル)を支える思想的基盤ともなっている。

 7.結語

  ホワイトヘッドの哲学は以上に述べたような可能性を内に持つものでありながら、その意義が広く理解されているとは言えない。市井三郎氏は「ホワイトヘッド思想の重要性が西欧において充分に認識されてこなかった原因」として次の三点を挙げている。(注19)

(1)ドイツ哲学の十九世紀的伝統を固執する哲学者たちが、カント哲学は理性主義と経験論との綜合を達成した、という定説をいぜんとして受け容れ、イギリス経験論がすでに克服されてしまったように独断する傾きがあること。

(2)一九三〇年代から次第にアングロ・サクソンの哲学界に勢力をもつにいたった論理実証主義学派が、カント哲学の真の克服は、自分たちの立場において初めて達成されたと信じていて、ホワイトヘッドの論理学的思想の一部にしか注意を向けていないこと。

(3)ホワイトヘッドの科学哲学的「三部作」において、「意味づけ」理論を中心とするいわば止揚された経験論が、整合にまとまった形で述べられていず、多少の矛盾まで見せながら「三部作」の方々に散在している上に、その著作『象徴作用』が薄っぺらな小冊子にすぎず、大著『過程と実在』に展開された彼の形而上学の方に、ひとびとの注意力を引きつけてしまったこと。

 市井氏の見解に我々が哲学研究者として如何に答えるかは、ホワイトヘッドに関わりを持たずとも、時代の状況の中で哲学する人間としてのそれぞれの課題となろう。しかし、それでもなお、世界の全体像が見失われている今こそが、ホワイトヘッドの思想を正当に評価すべき時であることは確かである。

 【注】

〈略号〉

AI :A.N.Whitehead:Advectures of Ideas.The Free Press,1967.

MT :A.N.Whitehead:Modes of Thought.The Free Press,1968.

PR :A.N.Whitehead:Process and Reality,corrected edition.The Free

Press,1967.

注1:石弘之『地球環境報告』 岩波新書 P.116〜139

注2:田中三彦『原発はなぜ危険か』岩波新書 P.60〜72

注3:この問題は第十四回全国若手哲学研究者ゼミナールのシンポジウム「歴史と生活世界」で論じられた。詳しくは『哲学の探求』1986年度版所収の二論文・豊泉周治

「現代社会の危機と生活世界」・加藤泰史「ハーバマスのコミュニケーション理論と現代日本の『社会史』研究」を参照。

注4:ジャン・ボードリャール『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳 筑摩書房 P.

302

注5:障害児の身体の不当緊張を取り除く『動作法』によって精神面に改善が現われることが例として挙げられる。この問題については筑波大学大学院OB有志のワークショップから多大な示唆を受けた。参考文献:成瀬悟策編著『障害児のための動作法』東京書籍など。

注6:例えばローティの用語で言えば“indubitably knowable”。 R.Rorty:Philosophy

and the Mirror of Nature. Princeton University Press.1979 参照。

注7:ハイゼンベルグ『現代物理学の自然像』尾崎辰之助訳 みすず書房 P.23

注8:筆者が理事を引き受けている『日本ホワイトヘッド・プロセス学会』は設立13

年になるが、この学会の命名にもシステム論などの有機体論とプロセス神学など生成を根本に据える考え方とが表現されている。

注9:PR.P.18

注10:MT.P.121

注11:AI.P.225〜226

注12:伊藤重行『出来事・有機体・現実的実質とシステム』−日本ホワイトヘッド・

プロセス学会誌『プロセス思想』1号 P.63

注13:PR.P.101

注14:村田晴夫『管理の哲学』文真堂 P.198

注15:分析哲学のイベント論では、事象の統一を諸事象の関係の最も大きな枠組で捉える立場と事象を構成する要素に細分化して捉える立場がある。日常的な因果関係の枠組の中で事象とその細かな構成要素の物理的諸条件までを一律に捉えることには無理がある。同時に、ある事象は、それより下位の要素に分けると性格の変わってしまう統一であるとも言える。しかし、二つの立場をホワイトヘッドのイベント論の立場から統一できる可能性がある。詳しくは拙稿『ホワイトヘッドのイベント論』(『哲学世界』14号所収)参照。

注16:AI.P.36〜

注17:システム論内部においても合理性とニヒリズムの両義牲が問題になる。詳しくは鞠子英雄『システムと認識』海鳴社 P.122〜参照。

注18:田中裕『西田・ホワイトヘッド・ポスト近代科学』−『プロセス思想』2号 

P.78

注19:市井三郎『ホワイトヘッドの哲学』第三文明社 P.96〜97

 〈『哲学の探求』1991年・シンポジウム報告〉

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最近の研究テーマから

多主体複雑系(ポリエージェントシステム)の理論

Poly-Agent Systems Theory

 Abstract

This article introduces a new paradgim, called poly-agent systems theory, to describe an organization or society involving diversified and autonomous decision makers. We first relate it with the conventional systems theory and, then, discuss one of its concrete models, i.e., intelligent poly-agent learning model.

 はじめに

多主体複雑系(ポリエージェントシステム)のパラダイムは、従来のオープンシステムパラダイムを補完する形で、人間や組織・集団を典型的な例とする異質で複数の意思決定主体が関与する状況をネットワーク的に相互作用するシステムとして捉え、その構造や相互作用を解明するための新しい思考の枠組みである。

 このパラダイムは、学問的には最近話題となっているいわゆる複雑系に関してシステム論に基づき正面からアプローチしようとするものであり、また社会現象的にはいろいろな場面で急速に進展しつつあるネットワーク現象を読み解くパラダイムである。

 システム論のもっとも大きな特徴は、全体論(ホーリズム)と呼ばれるものである。近代科学・現代科学のはとんどは、ものごとを「基本構成要素」に分解し、ものごとの性質をそれら基本構成要素の性質に還元して説明しようとしてきた。物質の振る舞いは素粒子に、組織・社会の行動は個人の行動に分解され説明されてきた。

 ホーリズム(全体論)は、こうした還元主義に対するアンチテーゼとして提唱され、「全体は部分の総和以上である」はこの全体論のよく知られたスローガンである。

また、最近複雑系という語を流行語化したサンタフェ研究所の設立に力を注いだ科学者たちの信念もやはり、「全体は部分の総和以上である」というテーゼだったといわれている。

 ここで提案する多主体複雑系パラダイムは単なる抽象的な論ではなく、具体的で厳密な「創発性(エマージェンス)と全体論(ホーリズム)の新しい理論」である。 

 多主体複雑系パラダイム

 多主体複雑系パラダイムは、基本的に3つのキーワード、すなわち、システムと環境の融合、参照内部モデル、ネットワーク、によって特徴づけられる。

 システム的な観点から対象を捉えるとき、対象を考察の対象としての「システム」とその周りをとりまく「環境」とに区別し、両者間の物質・エネルギー・情報の流れに注目しようとするオープン/クローズド・システムの視点は、もっとも基本的なものであった。そして、組織や人間はしばしば典型的なオープンシステムとしてとらえられ、システムと環境の2項対立で議論されてきた。そこで認識者にとって重要なのは、いかにして両者の間に境界を引くかという問題であり、適切な境界の設定が問題認識に本質的な意味を持っている。明確な境界の設定すなわち環境の認識は、己(システム)と他者(環境)の明確な識別をもたらし、環境は客観的なメカニズムを持ったものとして認識される。

 

これに対して、多主体複雑系の枠組みでは、単純な2項対立的視点ではなくシステムと環境の融合に重点を置き、システムと環境の明確な識別というよりむしろ環境とシステムの一体性・融合が強調される。さらに、この立場では、環境は客観的に外側に存在するのではなく、主観的知覚的な内部モデルとして意思決定主体の中に認識され、意思決定や行動の際にはこれが主体に参照されるとする。ここで、内部モデルとは、主体が自らとの関係を含む周囲の状況を知覚し解釈して、自らの内部に反映した像(モデル)を意味する。

このように、多主体複雑系の枠組みでは意思決定主体を、有機的なもの、適応するものとして捉え、世界をどのように考えていけばよいのかを学習する、つまり内部モデルを書き換えてゆく主体として捉えるのである。

 

内部モデルは、学習するにつれて創発的に立ち現れ、いわばエ−ジェントの頭のなかでしだいに形をなしていくものである。すべてのエ−ジェントがまったく判断能力を持たない状態では、みんながでたらめな判断しかできないのだが、お互いに出会って何かを学習していくにつれて、次第次第に賢くなっていくというプロセスに注目する。学習によりエージェントはとてつもなく賢くなるかもしれないし、あるいはそれはど賢くはならないかもしれない。それはすべて、エージェントが何を経験するかにかかっている。しかしいずれにしても、こうした、いわば人工的な知能を備えた適応的エージェントこそが、多主体複雑系における決定主体の本質である。

 

システムと環境の融合、内部モデルが多主体複雑系のミクロ的な特徴を示すキーワードとすれば、そのマクロ的なキーワードはネットワークである。ネットワークは、システム論では階層構造に対置される概念であるが、我々がそれを取り込む形で多主体複雑系パラダイムを提案する動機は、むしろヴィヴィッドな現実の社会現象の説明概念として不可欠だからである。

特に企業経営では、進化、ホロン型経営、インキュベーション(ふ化)など企業を1つの生物とみなすことにより、「生命体」に学ぶ洞察的な議論が展開され、新しい経営理論が創造されつつある。戦後、近代合理性科学へのアンチテーゼとしてシステム論が生物学等を中心に生まれてきた状況となんと似ていることだろう。

 

この多主体複雑系のパラダイムが従来の枠組みに完全にとって替わるべきであると主張するわけではない。むしろ、このような視点にたった方が、より有意味で深い議論ができることが多々あると指摘したい。以下で展開する知的ポリエージェント学習モデル (Intelligent Poly-Agent Learning Model, I-PALM)は、その具体的なモデルの1つである。

 

I-PALMMode 1

 

複数の意思決定者が対立する状況を数理的に取り扱うほぼ唯一の数理的考察枠組みはゲーム理論である。

従来のゲーム理論が各プレーヤーは一つの問題状況を共通の知識として理解していると仮定しその合理的な行動の性質を明らかにしようとするのに対し、ハイパーゲーム分析は同じ決定状況さえも各プレイヤーは異なって知覚していると仮定するモデルである。ハイパーゲーム分析は、通常のゲーム理論のように「全てのプレイヤーは同じゲームを見ている」とは想定しない。

 

I-PALMは、ハイパーゲーム分析を基礎に問題状況の理解の変化といったダイナミックな過程をも視野にいれた新しい分析枠組みである。すなわち、I-PALMにおいてもハイパーゲーム分析と同様に、ある問題状況に関与する人々は当初異なった多様な価値観を持っており、各人は共通に関与している問題状況を異なって知覚するのが当然であると仮定する。

そして、I-PALMは各プレーヤー間に相互作用のない独立な状況認識から始まって、各プレーヤーが次第に問題状況を学習し、互いに理解し相互認識を形成し、ついには通常のゲーム状況を共通に認識するようになる一連の過程を記述する。

 

I-PALMに関する研究は大きく2つのモードに分けることができる。

モード1のI-PALMは、意思決定主体の解の概念(合理性の基準)が学習のプロセスで時間の推移に従い刻々と変化するとし、それにより、学習に基づき決定主体がその内部モデルと合理性の概念を変化させてゆくプロセスを「すべての決定主体者の行動を知ることのできる」上位の視点から俯瞰し記述しようとする。

 

I-PALMMode 2へ向けて

 

モード1のI-PALMが、学習に基づき決定主体がその内部モデルと合理性の概念を変化させてゆくプロセスを「すべての決定主体者の行動を知ることのできる」上位の視点から記述しようとするのに対して、モード2のI-PALMは、いずれかの意思決定主体の立場にたって学習のプロセスを記述しようとするものである。

 

たとえば、単純ハイパーゲームにおいてプレーヤーは自らの持つ内部モデルを書き換えてゆくが、その中で記述される相手の持つ効用を実際にどのように想定しそれを相互作用の中でどのように書き換えてゆくかを考察することは典型的なモード2のI-PALMの関心事である。これについてはすでに、高橋らがGAを用いて研究を進めている。

 

また、単純ハイパーゲームから相互認識がどのように生まれてくるか(すなわち、どのような解釈関数$f$ $g$がどのように生まれてくるか)そのプロセスを考察することも興味深い。

 

さらに、内部モデルや解釈関数の想定の仕方が決定主体のタイプを表現すると考え、様々なタイプの決定主体が混在する状況で、相互作用後の均衡状態ではそのうちのどのタイプの主体が生き残っていくかを考察することも興味深い話題であり、現在研究を進めているところである。

 

 

 

 

 

大田友一, 金谷健一, 上田博唯, 松山隆司,AIマップ---ビジョン研究から見た統合アーキテクチャ」へのコメントと回答, 人工知能学会誌, Vol. 11, No. 2 (1996), pp. 216--227の一部分に相当

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ビジョン研究におけるパラダイムシフトとその幻想

Illusion of Paradigm Shift in Computer Vision

金谷健一

群馬大学工学部情報工学科

 

1. パラダイムシフトの原動力

松山氏はビジョン研究の方法論の変遷を整理した上で、人工知能研究に最近よく引用される哲学議論をビジョン研究にも適用して『「もの」の科学から「こと」の科学へという情報処理研究のパラダイムシフト』を提唱し、その枠組みとして『情報統合』を主張している*

 

* 以下、松山氏を引用するのに『...』を用いる。よく知られているように「パラダイムシフト」はThomas Kuhn [Kuhn 62]が科学の歴史を特徴づけるために導入したことばである。自然界の法則性を追及する自然科学においては、既存の認識の枠組み(パラダイム)に適合しない実験・観測事実が得られると、例外処置を施すなどして最小限の修正で対処しようとするが、そのような事実がしだいに多くなると、ついには修正がきかなくなり、まったく新しい認識に移行して安定する。しかし、やがてそれにも適合しない事実が発見され、また別の認識に移行し、これが繰り返される。このような認識の移行がパラダイムシフトであり、代表的な例は天動説から地動説への移行である。したがって、パラダイムシフトの原動力は「予想されなかった実験・観測事実」である。

「パラダイム」という用語は計算機によって知的システムを実現しようとする研究にもよく用いられ、中でもビジョン研究は最も乱用される分野の代表である。しかし、そこにおける「パラダイムシフト」の原動力は「予想されなかった実験・観測事実」ではない。それでは何であろうか。

 

松山氏は、『...考案されたアルゴリズムの限界や問題点が次第に明らかになり、...』、『...様々な観点からの問題点や限界が指摘され、...』、『...そこには限界があり、...』、『こうした研究の進め方の限界が次第に明らかになっており、...』のように『限界』という用語を繰り返していることから判断すると、ある方法論が試みられ、その「限界」が明らかになり、別の方法論に移行する(べきである)と考えているようである。しかし、特定の方法論が限界をもっていることを``証明''することはできないので、これは研究者が「このような方法では望ましい物やシステムが得られない``だろう''」と「予測」して、その方法論を放棄し、新たな可能性を探索することを意味する。その「予測」の背景は何であろうか。

 

 

2. ビジョン研究の単純信仰

コンピュータの誕生とともに、その限りない潜在的能力は多くの研究者を引きつけた。コンピュータは万能チューリング機械であり、人間の脳も究極的にはコンピュータと同じであるから、人間の知的活動もコンピュータで実現できるであろうと思われた。実際、if ... then ... else ...のような簡単なルールで言語や画像や音声を認識するシステムが試作された。それらはほんの数個のデータに対するおもちゃに過ぎなかったが、将来のハードウェアの進歩による計算能力の向上によってデータ数の限界はなくなる、したがって研究課題は単に``巧妙なルール''を思いつくことであるように思われた。ここから「知的システムは単純な方法で実現できる」という信仰が起こった。

この傾向は特にビジョン研究に著しく、``理論研究''と称するものにも数学や光学でよく知られていたことを当てはめただけのものが多かったことは松山氏の指摘通りである。おもしろいのは、高度な専門性をもつ数学や光学をビジョン研究に転用するには、その内容が単純でもよかった、というより、``単純でなければならなかった''ことである。単純な理論は数学や光学を専門としないビジョン研究者への啓蒙の意味もあり、また「ビジョンシステムは単純な方法で実現できる」という信仰を補強するものでもあり、大いに歓迎された。それに対して、高度に専門的な内容に深入りすると、「これは数学、光学の研究であってビジョン研究ではない、現実の課題を解決してはいない」という拒否反応とともに排斥される傾向にあった。

 

これは松山氏のいうように、『ビジョン研究を学問分野として確立するには、光学や数学の応用分野ではなく、視覚認識の問題に正面から立ち向かっていく姿勢が必要』があるという理由からであるが、半面これがビジョン研究を急速に広めた理由の一つでもある。なぜなら、深い専門知識を必要とせず、簡単な工夫をするだけでビジョン研究という``先端的分野''の研究ができるのであるから、学位取得、助成金獲得、業績蓄積に最適であり、世界中の大学と(なぜか日本の)企業がわれもわれもと手を出した。

 

 

3. ビジョン研究のパラダイムシフト

もちろん単純な手法でビジョンシステムが実現できるはずがない。一つの方法論を試みて望ましい結果が得られないとき、研究者は次の選択を迫られる。

1. 問題に含まれる要因を徹底的に解明する。これには高度の専門知識を要するので、その結果として松山氏のいうように必然的に『研究が進み専門性が深まるにつれ、それぞれ独自の研究分野を形成する』ようになる。

 

2. ビジョンシステムは単純な方法で実現できるはずだから、その方法は単純な実現ができないという意味で「限界」があると判断し、``正しい''方法論を模索する。

 

前者はビジョン研究以外の多くの工学の諸分野がたどった道である。一方、後者はビジョン研究によく見られ、例えば単純な特徴から3次元復元ができると思われたshape from ...も試みるとそれほど単純ではないことがわかり、「正しい方法論に従えば単純になるはずである」という理由で「アクティブビジョン」とか「クオリタティブビジョン」とか「パーパシブビジョン」とか、次々と``正しい''パラダイム探しが続けられた。

 

松山氏は『人間と同等な能力をもったビジョンシステムを実現するには attentiveな視覚を実現するための注意の集中やトップダウン画像解析などのメカニズムが不可欠である』が、過去の数理解析の成果は『ビジョンシステムにおいて必要となる機能の一部に関するもの』でしかないから、それらの方法論には『限界』があり、したがって『新たな研究パラダイムが望まれている』と主張する。松山氏の提唱する『情報統合』はビジョンシステムをいわば「生命体」にせよということである。「生命体」を特徴づけるのは、それが孤立した『もの』(reality)ではなく、内部世界が外部世界に反応するとともに外部世界に作用して適応や成長するという『こと』(actuality)である。この『sensing & action』の『有機的結合』を模倣すればビジョンシステムは人間と同等な能力をもつというわけである。

 

 

4. ビジョンシステムはなぜ困難か

松山氏の楽観的なパラダイムは研究者の夢をかき立てはするが、計算機が出現した当時の単純信仰に通じる空想である。飛行機が小鳥のようにすばやく飛び回れないように、ビジョンシステムが人間と同等な能力をもつことはできない。これは「ビジョンシステムの実現」という``問題そのものに内在する本質的な困難''のためであり、その難しさは地震予知や癌治療や核融合炉研究にも匹敵する。筆者の見解では、ビジョンシステムの困難さは、対象が力学や光学の法則に支配される``物理現象''であり、それをカメラという光学系から入力し、電気電子系によって変換、処理され計算機という情報処理系に到達して「画像」となることにある。これらの複雑な要素を考慮しなければビジョンシステムは実現できない。

ビジョンシステムの目的は松山氏のいうように『画像を解析し、システムに蓄えられた知識に基づいた推論を行なうことにより、画像が表す元のシーンの記述を作成』し、``物理世界の物体の認識や識別''を行なうことである*。例えば困難な処理の例として「領域分割」がよく取り上げられるが、領域に分割すること自体に困難はない。問題は、分割した領域の境界が物理世界の物体の境界に必ずしも一致しないことである。これに対して、松山氏のいう『画像中の領域や認識された対象物といった物理的実体(身体性)をもつ対象がそれぞれ独立したエージェントとみなされ、それらの協調作用によって画像の領域分割やシーンの構造記述の作成』を行ったとしても、出てきた結果は「この処理ではこの結果が出た」としかいえない。それ以上のことをいうには、「処理している画像は物理世界の物体が照明を受けて光学系に撮像され、電気電子系に通して確率的な誤差や系統的な変形を受けて画像上に写像されたものである」という事実を細かく解析しなければならない。

 

 

* これに対して``パタン認識''は物理世界との対応は考えず、画像の世界だけ

で認識や識別を行なうものである。ビジョン研究の特異性はこのように物理現象、光学現象、電気電子現象を直接の対象としている点である。文字や音声や図面や言語の認識においては入力は人間が伝達したい意味を一定のルールで生成した信号であるが、ビジョンにおいてはシーンは``自然現象''である。このため考慮すべき要因が飛躍的に多い。これらを一つ一つ取り上げなければビジョンシステムが実現できない。それには松山氏の排斥する『還元主義』によって『「もの」を構成する根源的要素の追及を論理的、客観的に行なうことを基本原理』とするしかない*1。部分に還元せずに『情報統合』によってエージェントが手品のようにどこからともなく解決策をひねり出そうというのは幻想である*2。ビジョン研究は必然的に専門化、細分化せざるを得ない。なぜならそれだけの困難を内在しているからである。

 

*1 人工知能の議論は『こと』(actuality)の世界で果てしなくぐるぐる回りを

している。これを『もの』(reality)の世界に投影して始めて(個別の)科学

技術となる。

 

*2 ``正則化''と呼ばれる技法も同様である。``事前の知識''と統合して主観

的にもっともらしそうな解を作り出しても、誤差や誤りをもたらす『根源

的要素』とそのメカニズムを『論理的、客観的に』解明していないのでは、

その例でうまくいってもそれ以外の例でうまくいく保証がない。5. 数理解析手法に限界はあるか

ビジョンシステムの対象とする実世界は物理、光学法則によって支配され、それらは数学によって記述される。カメラ系、電気電子系の確率的ノイズや系統的歪みも数学的に記述される。したがって「画像は物理世界の物体を光学、電気電子系に通して得られたものである」という事実は数理解析によってのみ正しく記述できる。このため、『ビジョン研究を学問分野として確立するには、光学や数学の応用分野として』、『精密な光学モデルと高度な解析幾何学の知識を利用し、処理・計算には多様な数理的最適化手法や統計的推定法を駆使する』必要がある。

もちろん、考慮すべき要因は無数にあるので、それらをすべて厳密に解析することはできない。それに対処するには次のような専門化、細分化が必要である。

 

・人間と同等な能力をもつ汎用ビジョンシステムを追及するのではなく、限定した環境で特定の目的をもつ個別システムを開発する。

 ・複雑な解析を簡単化する近似手法を開発する。そして数理解析によってその近似の精度、意味、適用範囲、限界を明らかにする。

 この両者は不可分である。近似が正当化できるためには環境が限定されていなければならない*

 * その意味でのすぐれた研究の例に[Wada 95]がある。松山氏の統合パラダイムの底にあるのは「個々のエージェント*の能力は小さくても互いの協調作用によって高度の機能が実現できる」という思想であるが、これは方向が逆である。松山氏は数理解析の問題点として次のように述べている。

 * 当然「数理解析エージェント」も含まれるのであろう。『数理的解析手法でよく用いられる雑音モデルに基づく統計的推定は精度の向上には役立つが、頑健性を実現するにはそれに加えて誤ったデータ(outlier) の検出・認識機能が必要となる。また、柔軟性を持たせるには、アルゴリズムで用いられているモデルが解析対象のデータのモデルとして本当に妥当であるかどうかを判断するための基準や、適切なモデルに基づいたアルゴリズムの選択機能およびデータの特性にあったパラメータ値の設定機能が必要となる。』

松山氏は言外に

 ・これらの問題は数理解析では解決できない、

 ・これらの問題は情報統合で解決できる、

 といおうとしているようであるが、両方とも誤りである。

 1. アウトライア検出(というより、実際はインライア検出)は最近研究が進み、インライアの候補を選択しては、それが数理モデルに従うインライアであるかどうかを確率・統計的に検定する手法が研究されている[Torr 93]。それには複雑な数理解析と多量の計算量を要するが、これは問題がそれだけ複雑なのであるから当然であって、ヒューリステックスやエージェントの協調作用では解決できない。

 2. 観測データを解釈するための数理的モデルが複数ある場合に、確率・統計的理論に基づいた``情報量基準''(AIC)を用いる研究が行われている[金谷 95a,95b,95c]。これによると判定のためのしきい値を何ら設定する必要がない。従来は``その実験''がうまくいくようにしきい値を調節するような例を見かけることもあったが、ヒューリステックスやエージェントの協調作用のような非数理的な方法では恣意的なしきい値を導入せざるをえない。それを理論的に定めるには誤差の数理的な性質に関する深い考察が必要になる。実際、情報量基準の解析には相当高度な数理解析が必要であるが、これは問題がそれだけ複雑なのであるから当然である。

 3. 3次元解析がしやすいようにカメラの運動を制御する「アクティブビジョン」でも、ある制御で得られた画像がロバストな3次元解析に妥当か、あるいは新たな制御が必要かを判断する基準が必要になる。これは画像の誤差を考慮した情報量基準や解析の信頼性評価から得られるものであり、他のエージェントとのやりとりからは得られない。

 この種の解析が過去に存在しなかったからといって、それが数理解析の方法論としての「限界」であるというのは誤りである。単にしていなかっただけである。また解析が複雑になることを方法論の「限界」とみなすのも正しくない。複雑になるのはビジョンシステムの本質から当然である。

 

6. 結論

ビジョンシステムの実現は困難な問題である。それは考慮すべき要因が極めて多いからであり、パラダイムの責任ではない。パラダイムシフトに右往左往するのは渋滞から逃れるために「抜け道ガイドマップ」を買いあさるようなものである。しかし安易な道は存在しない。要因を一つ一つ解明して初めて道が開ける。数理解析はそのための最も基本的な手段である。これによってビジョン研究は空想から科学となる。

 

参考文献

1.[金谷 95a]金谷健一:幾何学的モデルの選択基準について,情報処理学会数理モデル化と問題解決研究会資料, 95-MPS-2, pp. 27--32 (1995).

2.[金谷 95b]金谷健一:幾何学的モデル選択の情報量基準,電子情報通信学会情報理論研究会資料, IT95-16, pp. 19--24 (1995).

 3.[金谷 95c]金谷健一:情報量基準による幾何学的推論,情報処理学会人工知能研究会資料, 95-AI-101, pp. 1--6 (1995).

 4.Kuhn 62] Kuhn, T.: ``The Structure of Scientific Revolutions'', University of Chicago Press (1962).

 5.Torr 93Torr, P. H. S., and Murray, W.: Statisitcal detection of independent movement from a moving camera, ``Image and Vision Computing'', Vol. 11, No. 4, pp. 180--187 (1993).

 6.Wada 95Wada, T., Ukida, H. and Matsuyama, T.: Shape from shading with interreflections under proximal light source: 3D shape reconstruction of unfolded book surface from a scanner image, ``Proceedings of the 5th International Conference on Computer Vision'', June 1995, Cambridge, MA, U.S.A., pp. 66--71.

     

 

 「SO-」フューチャーヒアリング

「要素還元主義の限界。そして複雑系が語る新たなる知の世界。」

田坂広志

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これまで多くの知識人や研究者は要素還元主義に基づき「世界」を解釈してきた。要素還元主義とは「何かを認識するためには、その対象を要素に分割・還元し、一つ一つの要素を詳しく調べた後、これらの結果を再び集めればよい」という考え方である。「世界」を「巨大な機械」と見做し、これを一度分解し、良く調べ、再度組み立てるという機械的世界観と要素還元主義の手法は、確かにこれまで多くの成果を挙げてきた。しかし、大学や研究機関などが、この分解された要素を、それぞれの専門分野から徹底的に分析・研究することによって広大な知の領域を切り拓いてきた反面、高邁な理念として語られる「学際的アプローチ」や「総合」という言葉は、実際には「分析」した結果の“足し合わせ”以上の内容を獲得していない。 そもそも宇宙・地球・自然・社会・市場・企業などの「世界」は、本来「複雑化すると新しい性質を獲得する」という特性を持っている。そのため、それを分割した瞬間に、獲得された新しい性質は失われてしまい、対象を分割する度に大切な何かが失われていく。これが、「世界」の本質を見極めようとするときに、近代科学の要素還元主義が直面する限界である。それゆえ、いかに優秀であっても、自己の狭い専門領域にこだわる研究者が集まっただけでは、何も起こらない。いま、「複雑系」のブームの中でサンタフェ研究所に学ぶべきは、学際的アプローチという「知の格闘技」に挑む不屈の精神と不断の情熱である。

複雑系の世界において、「未来予測」は大きな意味をもたない。「非線形現象」の存在により、初期条件のわずかな違いが、大きな結果の違いをもたらしてしまい、また、「基本プロセス」そのものが進化してしまうからである。さらに、「進化のプロセス」そのものが進化することが、未来予測の不可能性を決定的なものにしている。「進化」は「変化」とは異なり、それが起こる以前と以後で「基本プロセス」そのものが根本的に異なってしまう現象である。すなわち、「複雑系の知」が明らかにするのは、この世界は「創造的進化」を遂げ続ける世界であるという深淵なる事実である。そして、この「創造的進化」を遂げる世界において、「分析」に代わる新しい認識手法が有効性を獲得していく。それは「洞察」という認識手法である。この古典的な手法が、新たな生命力と豊かな内容を獲得し、現代的な手法へと生まれ変わってくる。なぜならば、現代の先端技術は、身体性を伴った仮想体験を可能にしつつある。こうした「仮想体験」を通じて深い「洞察」を獲得する手法は、これまでの「言語と理論」や「分析と総合」を超えた非言語的な知の獲得手法である。そして、こうした新しい知の獲得手法は、「要素還元主義」に代わる「全包括主義(Wholism)」の世界認識の手法であり、こうした手法こそが、世界の本質に深く迫っていくために求められている。

 もともと世界は複雑系そのものであり「絶対矛盾」をそのまま内包している。それゆえ、「論理と直感」「精神と身体」「知と行」を分離した二項対立的思考では理解できない世界である。そして、いま我々人類が直面している諸問題と危機の深刻さを見つめるならば、「機械的世界観」から「生命的世界観」へ、「要素還元主義」から「全包括主義」へと知のパラダイムを転換することの重要性が、ますます強く認識されつつある。目前の21世紀は、まさに「生命論パラダイム」の時代となるだろう。複雑系の知が教えることは、そのことに他ならない。

 

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 田坂 広志(たさか・ひろし)

1951年生まれ、1974年東京大学工学部卒業。1981年東京大学大学院修了。工学博士。同年民間企業入社。1987年米国シンクタンク・バテル記念研究所客員研究員。1990年日本総合研究所の設立に参加。民間主導による新産業創造のビジョンと戦略を掲げ500社と15のコンソーシアムを設立・運営する。現職株式会社日本総合研究所取締役事業企画部長。名古屋大学講師。立命館大学講師。著書として『複雑系の経済学』(1997年・ダイヤモンド社)等がある。E-mail tasaka@ird.jri.co.jp

 

 

カルナップ × ベルタランフィ

 

統一科学

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 論理実証主義はある意味で「統一科学」運動だったとも言える。彼らが「科学」とか「科学的」ということを標榜したのは、伝統的に哲学の中心とされてきた形而上学が嫌いだからだ。しかし、なぜ科学の「統一」なのだろう。これはしかし逆立ちした問いであるかもしれない。なぜなら、もともと哲学は科学の外になかったのであって、そうである時には科学も分裂などしていなかったからである。つまり、そんな時代には科学を統一する必要もなかったのである。その中で「原理的な」問題、「本的な」問題を扱う部分が、次第に「哲学」として独立するようになったのは、逆に、「科学」が「個別科学」として独立して行ったからである。

 だから、論理実証主義が「統一科学」を語るとき、彼らこそ最も「哲学的」だったのである。親離れしていった子供たち(個別諸科学)に恨みを抱きつつ、無視することしかできなった自称「哲学=形而上学者」たちは、その意味でもはや「哲学」者ではない。論理実証主義は、極めて正統的で、「まともな」哲学運動なのである。世界は一つなのに、知の在り様が分裂しているのはおかしいではないか。

 論理実証主義者の中でも、統一科学に積極的な発言を行なったのがノイラートである。彼の考えでは、統一科学は科学とは別の領域(メタ・レベル)にあるものではなく、諸科学の内部にあって、相互関係を分析し、汎通的な言語によって連帯させようとするものだった。当然のことながら、新カント派的な、文化科学・精神科学(歴史学、文学、心理学、社会学)と自然科学との垣根もとっぱらってしまう。これを受け継いだカルナップは、科学理論を厳密に形式化することによって、その基本的な論理構造(科学言語の論理的シンタックス)を取りだすことを目指した。

 しかし、論理実証主義運動の変転の中で、カルナップの考えは強力に働くと同時に、運動そのものの多様化をもたらした。なぜなら、カルナップによる還元主義は、それ自体「統一科学」志向の求心力ではあったが、その還元主義の許容範囲を巡って、様々な修正が行なわれることになったからである。最初主張されたていた、直接経験への還元は、厳しすぎるものだとして、次第に矛先は鈍って行った(そもそも、「直接経験」とは何かのかが問題であったのだ)。こうした立場を「現象主義」と呼ぶ。これに対してカルナップは、いわゆる「物理主義」を採って、物体の運動を記述するような命題に検証の基準を置いた。

 しかし、それによって多様化し、瓦解して行った論理実証主義による統一科学運動が、やはり一つのまとまりを持っていたことが分かるのは、むしろ、別種の統一科学の提唱との対比によってである。例えば、ベルタランフィは、「一般システム論」と呼ぶものを提唱している。彼の考えでは、ある系の分析は、その系を構成する諸要素の分析に解消されることはない。むしろ、全体への統合ないし組織化の構造が、種々の段階で反復的に見られることが重要である。いわば、諸科学は同一地平へと還元されるのではなく、同型的な構造の階層を構成することによって統一されるのである。

 これは明らかに生物学からの発想であり、全体主義(ベルタランフィ自身は「パースペクティヴィズム」と呼んだ)であり、伝統的に「有機体論(オルガニスムス)」と呼ばれてきたものである。しかし、彼自身の考えでは、これは伝統的に機械論対生気論として対立してきたものの超克であり、より高次の調停である。生物学においてこそ、精神・文化諸科学と自然諸科学とが幸福にも出会うのである。

 こうした全体論との対比の上で見れば、カルナップの還元主義が物理学に範型を置いていたことの意味は見通しやすい。それは、デモクリトス的な原子論(デモクリトス対エピクロス)の復興であるとも言える。

  

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プリゴジン大先生の講義の私的解釈

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 投稿者 秦野彰二 日時 1997 7 24 01:10:31:

 

 プリゴジンの講演会聞きました.以下講演の私流の解釈です.

 

 プリゴジンの講演のテーマは,未来は与えられているか?つまり,宇宙は決定論的な法則に従って推移するのか,あるいは決定論的ではないのか?どちらなのかということです.そして,プリゴジンは非決定論を支持しています.その根拠は,決定論では,(経験的概念,従って自然言語概念としての)時間の不可逆性が説明できないことです.

 

決定論的な方程式によって宇宙の状態が完全に記述できるとすれば,方程式に放り込む境界条件(初期値)さえわかれば,過去も未来も我々は完全に予測することが出来るはずです.つまり,世界はU = f(t)と記述されるはずです.ここで,tは唯一のパラメータである絶対時間です.ところが,方程式だけから,時間がなぜ不可逆に推移するように感じられるのかは判然としません(私見によればこの表現は全く論理的ではない*).なぜ,フィルムの逆回しのように世界を観測することができないのでしょうか?

 

この問題の解決を,我々に無限精度の観測ができない(すなわち,適切な境界条件を与えられないため方程式は完全でない)ことに求める意見があるそうです.この考えは,観測の誤差には再現性がないので,不可逆性が導かれるということだと思われます.誤差自体は世界を記述する方程式だけから説明できませんから(論理的に説明できれば,誤差は方程式から導くことが出来て,即完全に世界を記述する方程式になってしまい,誤差の定義に反することになる),非論理的・恣意的な誤差の概念(くどいようですが,誤差が論理的に説明されれば,世界方程式をヴァージョンアップできるので,完全記述が得られてしまい,時間が説明できない)を持ち込んで,時間の不可逆性を説明しています*

 

 ここで,確率的な過程を持ち込めば,観測や誤差という恣意的な概念を持ち込まずに,時間の不可逆性を説明できることになります.つまり,方程式は未来を決定的には記述せず,確率論的な記述しかないのなら,時間の不可逆性を説明できるはずだというのです.既に起きたことによって未来を予測する方程式は記述できますが,未来は確率的にしか分からないというのです.従って,過去の方程式は,ありえた現在をいくつも含んでいたのですが,ある確率によって偶然,現在ができあがったと考えることになります.現在はただ一つであることは間違い有りませんが,なぜこの現在なのかという問いは,厳密な意味を持ちません.もし,厳密な意味があるならば,過去から決定できることになり,これは決定論になってしまいます.もちろん,確率的と言っても,偏りがあるので,明日にでも世界がばらばらに砕け散ってしまうわけではありません.現在の状態が方程式に可能性の限定を強いるからです.さらに,確率分布が連続的で無限分割可能なものならば,過去からみた現在は確率ゼロで選択されたことになります(実はここのところがよくわかりませんでした,ヒルベルト空間がどうのとか言っていましたが,専門家でない私にはよくわかりません.横沢さん解説お願いします).

 

このような考え方に立つと,過去と未来を,質の異なる概念としてはっきり区別することができます.過去とは,現在までの確率的な選択結果の歴史であり(しかも確率ゼロで選択されてきた歴史?!),未来とは未だ選択されていない可能性を多く含んでいるわけです.その未来のうちの一つが選択されて現在に到来すれば,ただちに方程式が選択された状態によって書き換えられて,より未来の可能性は,さらに限定を受けることでしょう.過ぎ去った過去はもはや,歴史に過ぎず,いかなる可能性を語ることもありません.確率分布が連続で無限分割可能ならば,宇宙の歴史には再現性はありません.宇宙の歴史は確率ゼロの選択の積み重ねだからです.だとすれば,現在の型の生物は宇宙の歴史上一回だけ歴史として生起して時を刻んで進化してきたものになり,原理的に現存する型の生物を合成することは不可能になります.

私はこれまでに,生物における物理法則に矛盾しない特殊法則の仮説を書き散らしてきましたが,プリゴジンの講演を聴いて,より論理的な論考ができるようになりました.感謝.

 *時間が不可逆であるという概念は,非決定論的な方程式によって記述されない限り,自然言語の範疇を越えるものではない.つまり,決定論的な方程式によって世界を記述した後で,観測という恣意的な概念を持ち込んで,時間が不可逆であるという信念を説明するのは,トートロジーであってなにも説明していないことになる.ここでは「時間が不可逆であるのは,必ず誤差を含んでいる観測が原因である」という.しかし,自然言語故に「誤差を含む観測によって時間の不可逆性を感じることができる」という解釈を免れることができない.ここにおいて循環が成立しているので,なにも説明していないのと同じになってしまう.もちろん,観測と時間が全く異なる概念であることを証明できればこの限りではないが,自然言語である限り論理的な証明は原理的に不可能である.

これに比して,非決定論的な方程式の記述では,不可逆性は方程式自体が示す確率過程にあるので,不可逆性自体は論理的に方程式より導かれる.ここで,自然言語の経験である時間の不可逆性に対峙することになる.従って,観測−時間という自然言語対自然言語のトートロジーではなく,論理的不可逆性−時間という形式論理対自然言語の構造になっていることが分かる.

カオス・フラクタルなどの非線形数学や「複雑系のカオス的シナリオ」を貫く世界観は前者である.ここでは決定論的予測不可能性が語られるが,これは厳密な観測が不可能なら,カオス方程式の境界条件が決定できないため,未来が予測不可能になるというモチーフによっている.カオス方程式は境界条件の無限小のズレによって全く異なる結果が出るので,予測不可能ではないかというわけだ.ところが,別にカオス方程式でなくても,厳密な意味で未来は予測できないことには変わりない.一般的な系では,境界条件の無限小のズレは,未来の状態の無限小のズレになるというだけであって,0でないことにはかわりないのである.一般的な系における,未来の無限小のズレのみを恣意的に,0とみなすことはできない.全ての無限小のズレを0と見なせば,カオス方程式においても未来は1点に収束してしまって,いわゆる決定論的予測不可能性を導くことが出来ない.一部の無限小のズレを恣意的に差別することにより決定論的予測不可能性が導かれるというのは,マッチポンプの類ではないのかと思うのである.

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