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数学 |
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「数学の才なき者は入るべからず」
2000年前、プラトンのアカデメイアの門に刻まれていた文だ。
当時数学は生まれたばかりだった。君たちのように割り算ができて、分数の足し算ができれば、この門はくぐれる。
その後、プラトテレスは「万物は数字でできている」といったが、彼の真意は、どこにあったのだろうか?
数学だけでは現実世界の全てに回答を与えられない。
数式は「それを数学的に置き換えても、それが現実に起きていることと一致している」というモデルにすぎない。モデルとして妥当であるという程度なのである。
しかし、我々が日々関心を抱いているのは、現実世界における複雑にからみあった回答不能問題だ。
数学が現実を解決できないとき、矛盾が存在するだのパラドックスが発生するだのの説明になる。
数学の中に物理学はあるのか?
数学としては成り立っても、物理的には意味がないということがある。物理学の中の数学には2つあやまちを犯しやすい体質がある。
ひとつは「量子論の拡大解釈による過ち」と二つ目は「相対性理論の拡大解釈による過ち」だ。
@「まず現象ありきの量子論」では便法としての数学を許容してしまう。
例えば、2乗すると負になる虚数のようなものは、数学世界だけの存在で、自然界に実体としては存在しない。
観測結果をあとから式で理屈つけるような量子力学では、こうしたことがおこる。数学的「便法」なのである。
「負物質」も実在しない。電気のプラス・マイナスといっても、単なる電流の方向をあらわしたもので、負の電気というのが、実在するわけではない。
結果から入ってくる数学的便法を認めてしまっている量子論は、逆説的ではあるが、否定する人はいないのはあたりまえだ。
たとえば6という結果になる式などいくらでも「考えられる」
「6」が正しくても、「考え」の正しさとは、無関係なのが、数学である。
1 | 2×3 |
2 | 3+3 |
3 | 4+2 |
4 | 5+1 |
5 | 1×6 |
・・・ | ・・・ |
A「まず数学ありきの相対性理論」は、物理的実在ではない。
「過去への旅行も数学的にありえるから、実現できる。」なんてのも、物理学者きどりの数学者の視点にすぎない。
数学世界にあるような5次元とか、無限次元なども、自然界には、当然ながら実在しない。
数学的にありえるからといって、それを物理的実在に拡大解釈してはいけないのである。
学問の体質が数学と物理学では、根本的に異なるのである。
こうした過ちをどこかで規制する原則は規定できないものだろか?
少なくとも数学の側から出てくることはないだろう。
しかし、数学で規定しないと納得しない人が多いのだろう。しかし、これはトートロジーの過ちに陥っている。
そもそも数学的に証明できた程度で物理の「理論」としては、いけない。せめて「数学的理論」と「物理実在的理論」と言葉を分けてほしい。この次元の違うものをひとつの言葉で扱っているから、つい頭から信じてしまう「理論盲信」が起こるのだ。
数学は物理的実在に制限を受けずに仮定をどんどん発展させることができる。故に方程式で表すと前提が間違いでも正しくても無関係に「解」がでてしまう のだ。
ヒルベルトの「物理学の中から数学を排斥するべきである。」の真意はこうした意味なのだ。
考えてもらいたい。自然自体には矛盾は存在しないのである。
そして自然の全てを解き明かすには、賢者の鍵がまだまだ無限個数必要とされるだろう。
だから何百年先にも科学を巡る旅路は決して終わることはないだろう。前向きしかあり得ない
と思うのです。…………・