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範疇錯誤と <前・超>の虚偽 |
ケン・ウィルバー |
量子の公案:訳者のあとがきより 田中三彦と吉福伸逸
神秘的伝統が見る風景と、自然科学がみる風景は、あまりに異質である為、両者の直接的な照合は相似にならず相違点のみが目立つ。
だからこそ、形而上学と自然科学という両極の中間にあって、両者にいわば何がしか座標変換をほどこしながら、両者を注意深く照合していく哲学、心理学、論理学といった諸分野があるのだろう。
トランスパーソナル心理学もまた形而上と形而下の中間に位置し、存在と意識を、究極的には、一貫性のある宇宙体型を構成することを目指すものである。
無論、存在と意識を階層構造として提示することが、新しいというわけではない。すでにさまざまな神秘的伝統が、それぞれの言葉で様々な存在と意識のレベルを説いている。
そしてそれらの根底にある共通の理念が、いわゆる「永遠の哲学/心理学」であり、「存在の大いなる連鎖」である。
量子の公案は、「現代物理学は神秘を肯定・支持するものではない」というテーマで書かれている。
(面白いのは、友人カプラとボームを批判している点)
「眼には眼を」で展開されている概念範疇錯誤と<前・超>の虚偽
範疇錯誤
ボナヴェントゥラは人間には3つの知識を獲得する目があるとした。それは、永遠の哲学の説く3つの主要な存在領域に対応している。
「肉の目」-----粗(肉体と物質)
「理知の目」---微細(心的および霊的)
「黙想の目」----元因(超越的および黙想的)
そしてウィルバーとこう書いている。
「すべての人間が肉の目と理知の目と黙想の目を備えており、それぞれの目には独自の知識対象(感覚的、心的、超越的)がある。
上位の眼を、下位の眼に還元したり、下位の眼の観点から説明したりすることはできない。
それぞれの眼はそれぞれの場において有効かつ有用であるが、それだけでより上位の領域を把握しようとすると、誤謬を冒す。」
「一つの眼が、他の二つの眼の役割を侵害しようとする傾向」と要約することもできる。
現代物理学という肉の眼のデーターにもとづく概念の世界とかかわる理知の眼をもって、それより上位の超越的領域を否定することは、まさに範疇とうさくなのである。
<前・超>の虚偽
永遠の哲学がそうであるように、世界を<精神>の自己実現の過程を見る。
それは自然というもっとも下位の精神形態から、人間性を経て聖性へと向かう、あるいは、自然という「前意識」から自己意識を経て「超意識」へを向かう、進化の過程と見る。
ウィルバーのいう><前・超>の虚偽 とはこのような進化の過程を前提にした概念であるが、彼はそれを次のように記している。
「発達は前個から個を経て超個へと向かうため、また、前個と超個とはそれぞれ独特な意味で非個的であるため、未熟な目には前個と超個は類似したものと映るばかりか、時に同一のものであるかにすら見える。要するに、人は前個的な次元と超個的な次元を混同しがちなのだ。
前個的な次元(自然)と超個的な次元を混同して議論を進めることを彼は「<前・超>の虚偽」と予備、その虚偽が2つの主要な形態をとることを指摘している。
一つは超個を前個へと格下げして混同すること。
もう一つはその逆で、前個を超個へ昇格させて混同させてしまうことである。
ただし、両者とも「個的な領域」を認める。
そしてそれゆえに、二つからまったく対立する二つの世界観が表出するのである。
前者のような虚偽の場合、それは自然という前個的な源から一連の成長をへて、人間の合理性において進化の頂点に達するという世界観である。
後者のような虚偽の場合、一連の発達は霊的な源から出て、つみ深い人間、あるいは個的自我という低次の点で終わるという世界観が表出する。ウィルバーはこじ低次を「正統な宗教によく似ている」と断じる。
このような虚偽の説明は、前提となっている「存在の大いなる連鎖」という概念を受け入れるなら、きわめて説得力がある。
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