近代哲学再考 |
竹田青嗣 |
近代の「自由」の概念に対する疑念
第一の疑念:近代の目指す「自由な社会」の実現は、じつはけっして本質的な意味での人間的自由ではないのではないだろうか。むしろ社会的な自由の解放が進展するほど、人間は新しい不自由と抑圧の中に投げ込まれるのではないだろうか?
第二の疑念:「近代」そのものへの疑念である。19世紀、20世紀は、人間にとって未曾有うの災禍と悲惨の時代だった。資本主義の拡大による異常なまでの競争とその結果としての植民地支配と世界戦争。これらがもたらした恐るべき結果は、ヨーロッパの知識人に「近代」および「ヨーロッパ的原理」に対する深刻な反省を呼び起こした。
近代の批判
現在流通してる「反近代」の思潮はいわば、ニーチェの「やましい良心」を超えられていない。
「疚しい良心」とは自己の良心の負い目を”打ち消す”ための反省。
過剰な自己否定を制御できず、正確な洞察を欠いていること。
自由の歴史
近代の基本概念「市民社会」「近代国家」「自由な主体としての人間」をポストモダンは終焉したと主張してきた。
それにはやや屈折した理由がある。
マルクス主義は近代の「自由」の原理を「平等」の原理によって批判したが、人間の「精神の自由」への抑圧として働いたために失敗した。
ポストモダンは「マルクス主義」と「資本主義」の両方を批判した。両方とも人間の精神の自由を圧迫し、規定的で拘束的なものへと構造化する思想と制度として批判した。
彼らは一切の「規定的なもの」「拘束的なもの」「制度化するもの」に対抗を、「価値相対化」という方法で行った。
しかし致命的だったのは、彼らが、反規定性、反構造化の思想を近代社会の理解にそのままに持ち込んだことだった。
ポストモダン思想の近代像は、国民国家の権力的性格の”一側面”をよく表現はしているが、しかし近代社会全体についての核心的な本質にいては近視眼的であり、むしろ近代哲学がはるかにそれを深く捉えている。
したがって、「反平均化」「反制度化」「反構造化」をからでは、近代社会の根本的な本質は捉えてなかったのである。
1)近代の原理は、市民社会理念によって代表される。それは各人による「自由の相互承認」という原則において営まれる社会。つまり一切の超越的権利と権力を取り払って、フェアなルールゲームとして営まれる社会、という原理を設定する。
2)このことによって「政治」「法」「倫理」の概念が本質的に変質する。
3)さらに人間と「社会」の関係概念が根本的な変容を蒙る。
つまり思想は、世界の存在と正しき信仰の真理をめぐるものではなくなり、本質的に、一方で「社会思想」となり、一方で「実存思想」となる。またこの両者の関係が必ず探求の対象になる。思想は社会を人間の実存の一般条件ととらえてその絶えざる改変を目標とする社会と人間の思想となり、かつての真理や形而上学の探求としての思想は終焉する。
4)近代sじゃ会の設定によって人間の正の範型と意味もまた根本的に変化する。人間は「共同的役割」(カラクテール)という本質を捨て去り、自由な個体性を承認ゲームを通して表現する「人格的主体」(ぺルゾン)という新しい本質を獲得する。このことから、人間の本質は根本的にに多様なものとなり、その実存は「自己配慮」から自己の関係の「存在配慮」へとめがけるものとなり、との倫理は、信念対立をたえず克服して”普遍性”を求める存在となる。
このようなことが、「自由の相互承認」を基本原理とする近代社会における、人間と社会の関係上の公準なのである。
何よりも重要なのは、途中どんな多くの矛盾や困難にあっても、逆もどりさせることができないことである。
我々は人間関係の本質を。少しずつその十全な成熟にむけて深めていくほかない。
このことを明確にしない限り、現在われわれが共有している「近代」への根本的な懐疑が、「疚しい良心」の打消しという動機から離れて、本当に普遍的な批判思想が成熟することすることはけっしてありえないと思う。
本WEBの中心テーマは2つある。
1)近代の人間の「ほんとう」への欲望がどのような諸形態をとることになるかという問題。
2)この「ほんとう」への欲望が近代国家がぶつかった困難の前で挫折し、イデオロギー的思考と相対主義的アイロニズムのあいだで出口を見失って揺れ動いているという事態を、いかに克服するかとう問題。
アイロニズム
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