1994年 |
科学はどこまでいくのか |
池田清彦 |
1自然観と科学
科学といっても自然を意味づけしようとする私たちの欲求の一つなのである
自然とは何か
普通科学は自然科学をさす。社会科学は科学のシンプルな証明手法など用いた社会学であって科学ではない。
我々は自然をコントロールすることによって文明を築いてきた。あらゆる天変地異に可能な限りあらがい、自身の体も医学というメスでコントロールしている。
都市はそうした人類の営みの集大成だ。部屋に入れば、冬も夏も関係なく、地下街では雨や風も防げる。太陽も見えないが。
14世紀にヨーロッパでペストが大流行したときにわずか数年で、人口の3分に1〜半分を死に追いやった。
最後の哲学者オッカムもペストによって死んだかもしれない。その後哲学は、自然の猛威に全く役にたたないことが、信用を失い、自然科学が哲学にとってかわった可能性もある。
・自然の意味付け
人間が自然に意味を求めることは、自我の発生と密接につながる。「俺の考え」とかは、自分という自然
神の起源:基本は自然に対する恐れだ。河が怒れば河の神、海が怒れば海の神。ありとあらゆる災いをもたらす物が神となった。それ故多神教が自然の姿である。この思考には、真理という概念は生まれにくい。逆に一神教では真理という概念が生まれやすい。科学が西洋から生まれたのはそうした思考パターンによるもので、偶然ではない部分もある。メンデルは神父であり、ダーウィンも神学者
アニミズムだ。
・仏教の自然観
多くの宗教は、教義は細々した教典を学ぶプロセスを必要とされる。しかし、仏教は学ぶものではなく自ら悟れと教える。
・古代ギリシャの自然観
・現代科学の自然観
2:真理という物語
科学は真理を求めているのではない。同一性を求めているに過ぎない。
キリスト教的世界から科学的世界へ置き換わっていくプロセス
アリストテレスのコスモロジー
キリスト教とコスモロジー
プトレマイオスからニュートン
3:客観性と科学
科学は、知識をパッケージ化して知を一人あるきできる自己増殖可能な生命体のように作り替えた。
科学の制御はその発展を阻害することになるかもしれない。しかし、科学はほおっておけば勝手に増殖する。
科学が進化の歩みを止めてしまうことは心配していない、しかし、制御はほおっておいても、かってに進化する可能性は、自身の進化より遅れている。
主観と客観
帰納と実証
パラダイムの盛衰
4:コトバと科学
コトバとは何か
コトバと普遍
コトバと同一性
5:科学は時間を捨てる
形式という同一性
予測可能性のトリック
二つの普遍
6:制度としての科学
科学者が職業となった
天才の科学から凡人の科学へ
科学の細分化
天文学者であり、数学者であり、生物学者でもあり、哲学者でもあるいった、大天才が古代は行く人もいた。ダヴィンチにアリストテレスなどだ。
現代においてそれは可能であろうか?不可能だろう。知識は幾何級数的に増殖する。一人の頭の中に入らないし、実験する時間、技術を拾得する時間などこの幾何級数的に爆発する知識に対応するのは難しい。
科学が細分化していくのは、増殖性にその原因があり、必然避けて通れないのである。
モミコ重要なのは、全ての分野の表面を 少なくとも5%以上しっておくことだ、そのバランスが大切なのだ。
科学の自律性
7:科学のゆくえ
巨大科学をいかに普通の人がコントロールするか
理科ばなれ
巨大科学の問題点
欲望と科学技術
等身大の科学
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