虹の解体

 
  • 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか
    (リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins) 著 福岡伸一 訳 早川書房 2200円 ISBN:4-15-208341-7 原題:Unweaving the Rainbow : Science, Delusion and the Appetite for Wonder, 1998)

     

  • ニュートンはプリズムで光を分解してみせた。だが詩人ジョン・キーツらは、“虹の持つ詩情を破壊した”とニュートンを非難した。これと同じことは現在も起こり続けている。それでドーキンスは──故カール・セーガンがやっていたように──、そんなことはないんだよと説きたくなった、らしい。そのための素材は、虹や視覚の仕組みはもちろん、DNA鑑定や確率の考え方が持ち出される法廷や、超能力やエセ科学を信じたがる心、「根拠のないいわゆるカルチュラル・スタディーズ」、そしてやっぱりグールドの使うレトリックの批判などに及ぶ(258ページ以降)。グールド批判のためにスチュアート・カウフマンの『自己組織化と進化の論理』の記述までついでに斬っている。

    後半はちょっと余計だが、前半、特に序文と第一章には、まったくそのとおりだ!と意を強くする人が多いのではなかろうか。まるで科学者たちと科学ファンを前にして、高らかに演説しているようである。しかも行間から「そうだ!」という合いの手の声が聞こえそうなトーンである。いくつか引用しよう。

    本来、生きる意味に満ちた豊かな生を科学が意味のないものにしてしまう、という非難ほど徹底的に的はずれなものもあるまい。そういう考え方は私の感覚と一八〇度対局に位置するものだし、多くの現役の科学者も私と同じ思いだろう。しかし、私に対するそのような誤解のあまりの深さに、私自身絶望しかけたこともあったほどである。だが本書では気を取り直し、あえて積極的な反論を試みることにした。ここで私がしたいのは、科学における好奇心(センス・オブ・ワンダー)を喚起することである。というのも、私に対する非難や批判はすべて、好奇心を見失った人々に由来しており、それを考えると心が痛むからである。私の試みはすでに故カール・セーガンが巧みに行ったことでもあり、それゆえに彼の不在がいまはいっそう惜しまれよう。ともあれ、科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が感得しうる至福の経験のひとつであるといってよい。それは美的な情熱の一形態であり、音楽や詩がわれわれにもたらすことのできる美と比肩しうるものである。それはまた、人生を意義あるものにする。人生が有限であることを自覚するとき、その力はなおさら効果を発揮する。(8ページ)

    私たちは特別な優遇をうけた存在であるが、その優遇はこの惑星上で快適に生活できるということだけではない。自分たちが生存している短い時間の間に、私たちは自らの生を認識し、その意味を理解することができる機会が与えられているのだ。
    しばしば狭量な評論家が質問する──科学の役割とはいったい何か、と。いま述べたことが答えだと私は言いたい。誰が書いたのかはっきりしないが、こんな逸話がある。あるときマイケル・ファラデーが同じ質問を受けた。科学はいったい何に役立っているのか、と。ファラデーはこう質問しかえした。「では生まれたばかりの赤ん坊はいったい何に役立っていますか」。別に話の主人公がベンジャミン・フランクリンであろうが誰であろうが、この話の謂は、赤ん坊は今の時点では何の役にも立っていないけれども、未来に対しては大きな可能性を秘めているということだろう。私は、この話に別の意味を見いだすことができると思う。この世に生まれた赤ん坊の役割は、確かに職を手につけて働くことであろう。しかし、すべてのものごとの判断基準をその“有用性”だけにおき、生を受けたことの有用性は生きていくために働くことというのなら、それは不毛な循環理論にしかならない。生を受けたことの意味を問うのなら、何らかの価値がそこに付与されなければならない。生きるために働くといった目的本位な説明ではなく、生きること自体になんらかの意義づけが必要である。(中略) もちろん科学は利潤をもたらし、科学は役に立つ。しかし、それが存在意義のすべてではない。(21ページ)

    科学はとても楽しく面白いもので全然難しくなんかない、といういい方で科学を啓蒙すると結局、将来、どこかで失敗が起こるのではないかという気がする。本当の科学は必然的に難しいものであり、それゆえに積極的な意味でチャレンジングなものとなりうるのだ。(43ページ)

    しかしなお、凡人に科学の知識がないのは、場合によっては、格好がいいことだとかよいことであると思われている節があるようだ。(56ページ)

    こんな感じでドーキンスは、科学の敵をバッサバッサと斬りながら、ブルドーザーのように進む。

    ただ、これでは、おそらく一般人の啓蒙はなかなか難しいと思うのだ。もともと興味を持っている人がさらに興味を持つようになることはあるだろうが、もともと興味を持っていない人がこういったやり方で興味を持つようになるとは、残念ながら思えない。

    もう一つ重要なことがある。おそらく、ドーキンスのようなやりかたでは、ある種の教養人──たとえばサイモン・ジェンキンズのような人を納得させることはできないだろう。ジェンキンズは科学の批評家で、ドーキンス曰く「誰よりも手強い論敵」である。ジェンキンズは「科学書が人間を鼓舞しえるものであること」には賛成だが「義務教育の科目として科学が高い位置にあることには反対している」という。1996年、彼はドーキンスにこういったそうだ。

    私が読んだ科学書の中で役に立つと思ったものは本当にほとんどありませんでしたね。しかし、そういったものが私の中に残した印象は、興味深いものがあります。実際に自分の身のまわりの世界が、これまで実感していたよりもずっと豊かであり、はるかに驚きに満ち、すばらしい場所であるのだと私に感じさせてくれたんですから。私にとっては、これが科学の意味です。SFが人々に抗しがたい魅力をもち続ける理由も同じでしょう。最近、SFのテーマが生物学へと移ることにとても興味をそそられるのも、その点にあります。科学には語るべきすばらしいストーリーがあると思う。しかし、それは役に立つ、という意味ではないんです。経営学や法学、あるいは政治学や経済学といった学問のような意味で有益ではないんですよ。(63ページ)

    私自身、これとそっくりの答えを返されたことがある。私は十分に反論できなかった。ドーキンスは、ジェンキンズの考え方は独特だからといって「深くは追求しないことにする」と述べている。たぶんこれは「逃げ」だ。

    たとえば、私の大学時の指導教官は、風景を見ていれば飽きることがないと言っていた。その地形がどういう歴史的背景を持っているか、内部構造はどうなっているか、彼には「見えて」いたのだろう。また地質学をちょっとかじった人間なら、そこらへんの河原の石や庭石が、どんな岩石で、どういう由来を持つものなのか、頭に思い浮かべることができる。それは世界が広がったような、素晴らしい感覚だ。だが確かに、経済学やMBAのような意味で「役に立つ」ものではない。いわば、音楽や絵画が私たちの生活を豊かにするのと同じような意味で我々の心を豊かにしてはくれるけれども。では科学も、現在、芸術科目が追いやられているような授業時間で十分なのではないか? これに対して有効に反論するのは、意外と難しいように思う。

    この本のなかには何度も「センス・オブ・ワンダー」という言葉が登場する。訳者はそれぞれに、いろいろな訳を考えたようだ。「畏敬の念」というのは、なかなかはまっていると思った。

     

     


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