科学にWHYはない? |
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科学の定説にHOW(どのようにして)と問うても良いがWHY(どうして)と問うてはいけないというのがある。
WHYは安易な目的論に流れるからだという。例えば;
「リンゴはなぜ木から落ちるのか?」と問えば、「リンゴは落ちて割れて種を外に出して鳥に食べてもらい繁殖するのが目的だからだ。」−となってしまう。
確かにこの問いかけ方では、
ニュートンも万有引力を発見できなかったかもしれない。一般に科学では常に原因から結果を説明しなければいけない。
さもないと、無生物にでもその気になればまるで意志が介在しているかのように説明できてしまう。
同様に生命も何かの「ため」に進化しているのではない。(進化という言葉自体が議論の余地あるが)
しかし、巨大な力をもった科学はもはや単独では存続できず、哲学、倫理学、環境学からの要請を避けては通れないのである。
結果としての科学理論の説明(式)に目的論は極力持ち込まない方がいいが、科学の研究プロセスに目的を持ち込んでもかまわないのだ。
その場合でも、問いの立て方というのがある。
例えば、「人はなぜ道徳的でなければならないか?」という問いには古来から哲学者達により議論されてきたが、哲学的論争は今持って際限がない。
しかし、「人はなぜ道徳的になければならないと<思う>のか?」と問うと、これによって、問題を心理学の研究分野の変換できる。
さらに、「人はなぜ道徳的でなければならにと思うように<できている>のかと問えば、自然科学で扱える問題になる。
「HOWで答えられるようなWHYの問い方」というのが重要なのである。
こうすることによって、自然科学の知識を持った我々は、ソクラテスやカントのように堂々巡りに陥ることなく、彼らを軽々と超えることができるのです。
こうした問いの変換ができるかできないかは、
ヴィトゲンシュタイン>その通りさ。僕が哲学は終わったと言ったのはそう言う意味なのだよ。
ソフィー>ところで、クォークはなぜあるの?
ゲルマン>それだけは訊いてくれるな。量子論の栄光の歴史の最大のウィークポイントだからね。
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