2003年

知の統合

consilience

The Unity of Knowledge

E.O.Wilson

科学的知性と文化的知性の統合

ウイルソンは、社会生物学で、人間をアリのようにとらえた。すべてが物理過程で説明できるとした。私はウイルソンは嫌いだったが、ナチュナル的は出版物が読んでウイルソンは少し変化をしたとおもった。理系と文系の融合を図ろうという本書のテーマは、いってみれば、ウイルソンの第3期になるわけだが、一言で言えば、「より強固な社会生物学」として帰ってきた。物理過程で文化的知性も統合できるというものだ。
 

*イオニアの魔力

科学の統一を信じること−これをイオニアの魔力という。単なる作業問題としてではなく、世界は整然とした自然法則からできていると深く信じることを指す。

ルーツは 紀元前6世紀のタレスにさかのぼる。タレスは「万物は究極的に水からなる」と考えた。最終的には見当違いであったが、その真の重要性は、世界の物質的基盤と自然の統一性を述べた形而上的思考にある。

その魔力は科学のほかの分野にも広がり、少数者の頭のなかでは自然科学を超えて、社会科学にも、さらには人文科学にまでおよんでいる。

私たちは、身のたけ以上の目的をもちたがる。私たちは人間の精神というもっとも深い動因のために、命を吹き込まれた塵以上のものにならざるを得ない。私たちは、どこからきて、なぜここにいるのかを語る物語をもたねばいられない。

聖書は、初めて文字で宇宙を説明し、私たち自身をその宇宙の重要な存在と位置付ける為の試みだったのではなかろうか?

おそらく科学はそれと同じ目的を達成するための、より検討された新しい立脚点に立つ続編なのだろう。

もしそうなら、その意味において、科学とは、解放され拡大された宗教である。

それがイオニアの魔力の源であると私は信じる。

 

神による啓示よりも科学による客観的事実の探求を志向するのは、信仰への渇望をみたすもう一つの道である。めざすのは人間精神の委譲ではなく、人間精神の解放による魂の救済である。

その中心教義がアインシュタインが認識していた、「知識の統一」である。確かな知識が充分にまとめ上げられたとき、私たちはきっと、私たちが何者であるか、なぜここにいるのかを理解するだろう。

イカロスは翼というテクノロジーを手に入れ、大空をとんだが、太陽に向かって飛んだため、その蝋がとけ、海に落ちてしまった。これは、我々がテクノロジーを使い間違えた時の末路を暗示しているようだ。

イカロスは愚かな人間の象徴として語られるのか?いやその彼の大胆さは、人間のせめてもの長所をあらわしていると考えたい。

太陽が翼の蝋を溶かす前にどこまで高く飛べるみてみましょう。

 

*学問の大きな枝

 

最初にほぼ正しい理解に到達したのは17世紀〜18世紀の啓蒙期の思想家だった。法則に従う物質世界や、知識の本来的な統一や限界のない人間の進歩の可能性について彼らの前提はいまも心に受け入れやすく、なければ困り、知的向上を通して最大に価値がわかる。

もっとも偉大な精神の活動はつねに、自然科学と人文科学を結びつける試みだった。これからもつねにそうであろう。現在、知識の断片化が進み、その結果として哲学が昏迷しているのは、現実世界の反映ではなく、学術研究の所産である。

consilience(コンシリエンス=統合)は統一化への鍵である。

科学の枠を超えて、学問の大きな枝を統合することが可能であるという信念は、まだ科学ではない。

それは形而上的な世界観であり、しかもごくわずかな科学者と哲学者だけが共有する、少数派の世界観である。

だいいちに原理で証明できるものでもないし、反証可能な検証を基盤とすることもできない。少なくともこれまでに考えられた範囲ではできない。支えとなるのはせいぜい、自然科学の過去の成功を敷衍することぐらいだ。

統合の最大の魅力は、知的冒険ができるという見通しと、より確実性をもって人間の条件を理解できるという意義にある。

環境政策  

 

倫理学

 

  統合  
社会科学    

生物学

 

例えば、 まず環境問題としっかりとした政策の必要性を認識して、次に道徳論に基づく解決法を選択し、その理論の生物学的な基盤を知り、生活現象や環境や歴史の所産としての社会制度を把握し、そこから環境政策に戻ってくる道をたどって巡回できるかは、想像の中だけだ。

具体 例をあげよう。いま各国の政府はどこも、世界の森林面積の減少を食い止める最良の政策を見出せずにいる。合意につながりそうな倫理的指針はほとんど確立されておらず、されているものも不十分な生態環境の知識に基づいている。仮に十分な科学的知見があったとしても、森林を長期的に評価するための基準がほとんど無い。持続可能な生産の経済性は未熟な段階にあるし、自然の生態系がもたらす精神的恩恵については全くといっていいほど研究されていない。

 現実に巡回を実行すべき時が来ている。これは知識人が余暇に楽しむ頭の体操ではない。政策がどれほど賢明に選択されるかは知識人や政策指導者のみならず、教育を受けた一般社会人がこのような、あるいこれに類似した巡回 経路をどこから出発してもどの方向にでも容易にたどって考えられるかどうかにかかっている。

枠の一番内側の領域で統合が達成できるかどうかという問いは、すなわち適切な判断を一つの分野からほかの分野へスムーズに移行できるだろうかとい問いである。私はできるを考えている。

少なくとも物質世界に関しては、概念の統一に向かう勢いが圧倒的である。自然科学においては諸分野の境界線が消えて、統合を内在する混成領域が生まれつつある。

 人間の行為が物理的因果関係のある事実から成り立っていることを考えるなら、社会科学や人文科学は、自然科学との統合に鈍感ですまされるだろうか?提携による利益をみすみす手に入れ損なってもいいのだろうか? 人間の行為は歴史的で、その歴史は一回限りのだからというだけでは不十分だ。人間の歴史の流れと自然界の歴史の流れとを根本的にへだてるものは何も無い−星においても、生物の多様性においても。例えば、天文学や地質学や進化生物学は、自然科学系のその他の分野と統合によって結ばれた、主として歴史にかかわる分野であり、今日の歴史学は細部に至るまで独立した基本的な学問分野である。だが、もし地球に似た一万個の惑星で、人間に似た一万種類の生物の歴史を調べることが可能で、それらの歴史の比較研究から、反証可能な検証と法則が導き出されるとしたら、歴史記述−歴史的傾向の説明−は一つの自然科学になる。

文化の活動は究極的に、科学(自然科学)と人文学(特に創造芸術)のなかに組み込まれると私は考える。これらの領域は、21世紀の学問の大きな枝になるだろう。社会科学の諸分野はすでに敵対的にはじまっている分裂をつづけ、一部は生物学に内包されるか、あるいはつながり、残りは人文学を融合するだろう。諸分野は存続するが、かたちは根本的に変わる。その過程で人文学は、哲学も歴史学も、道徳論も比較宗教学も、芸術の解釈も、しだいに科学にちかづいて一部は科学と融合するだろう。

 

学問はいずれ収斂され、科学(自然科学)と人文学(特に創造芸術)大きな2つの枝が分離するだけとなる。

さらにその先の、残された2つの枝を1本に統合すること考えねばならない。

 

統合の探求は、教育において崩れつつあるリベラルアーツの体系を復活すること道になる。ルネサンスと啓蒙主義が残した学問の統一という理想は過去30年の間に反故にされてしまった。アメリカでも理系と文系の分離が激しい。

大学生はみな、次の質問に答える能力を持つべきである。科学と人文学の関係はなにか。それは人間の幸福にとってどのように重要なのか。

知識人や政治指導者も、みなこの質問に答えられなくてはならない。今すでに連邦議会に提出されている法案の半数は、知識の統合なしには解決できないだろう。統合ができれば、知識の多様性と深みが増すからだ。

統合の試みが重要である理由は、ほかにもある。それは知性に究極の目的を与える。地平線のかなたに混沌ではなく、秩序があることを約束する。私たちが受け入れて、そこに行き、それをみきわめるのは不可避であると考える。

 

HOME

ご意見はparadigm@dreamドットコムまで





 

知の挑戦―科学的知性と文化的知性の統合

 

Amazon.co.jp のロゴ

 
|