1998年 |
知能の関係論的把握 |
黒崎政男 |
知性は「ある」のか「感じる」のか?
人工知能を語る前に人間の知能とは何なのかをまず知る必要がある。
クロサキ>メーテルリンクが「青い鳥は捕まらないうちだけが青い鳥なのです。捕まえてしまったとたんに青い鳥はただの鳥になってしまう。」ということを言ってましたが、人工知能も青い鳥のようなものです。
ソフィー>つまり人工知能のアルゴリズムを作ったとたんにそれは知能ではなくなってしまう-ってことね?
クロサキ>うん、その通り。そこで僕は知能を「実体論的把握」と「関係論的把握」の両方から一度考える必要があるとおもうのです。
突然ですがひとつ俳句をご披露しましょう。
「古寺に斧こだまする寒さかな
わが恋は空の果てなる白百合か」
なかなかよい俳句でしょ?
ソフィー>まあまあってとこね。心得あるのかしら?
クロサキ>実はこれはコンピューターから自動出力された俳句です。
ソフィー>コンピューターに5,7,5のデーターを入れて作ったのね。
クロサキ>そう。でも「コンピューターに作れるか」と考える前に、この俳句の「作者は誰か」を考えて欲しい。
ソフィー>そのプログラムを書いた人?
クロサキ>そう。それともう一つの視点として、作品は読まれる人があって初めて成立するという点だ。
作品は最初から「実体」として存在しているのではなくて、読んでいる人自身の心情、思想にほかならない。
作者がコンピューターかプログラマーだとする立場を「実体論的把握」、読み手の立場をとるのが「関係論的把握」というわけだ。
ソフィー>もっと解りやすい言葉に置き換えてもらえない?
クロサキ>OK!つまり、知性は「ある」のか「感じる」のか?
ソフィー>なるほどね。知性と光を同じように見てみようと言う訳ね。
クロサキ>ああ、その比較面白いね。今度じっくり考えてみよう。
クロサキ>さて、最初の青い鳥の話をもう一度考えて欲しい。
ソフィー>つまり、幸せは「存在する」のか「感じる」のか−という問いね。
クロサキ>結論は出せないが、「感じるもの」の方に優位性があると思うね。
「関係論的把握」をもっと詳しく説明しよう。2つの立場がある。
まずは、イギリス、ジョージ・バークレーの主観的観念論だ。簡単に説明するなら「目を閉じてしまえば月はない」という立場だ。
もう一つは行動主義的関係論把握だ。これは行動主義心理学に基づくのだが、心を「外からの刺激に対して反応するもの」と規定するものだ。つまり心は存在してなく、刺激を与えて反応したときにその反応を心と呼ぼうということになる。
ソフィー>私も心理学ならちょっとかじっているからその意味理解できていると思うわ。
ソフィー>でも…。東洋では石にも心があるとみんな感じているし…。犬にも知性があると言えると思うわ。
クロサキ>そう、心をもった存在の是非は、我々の<構え>によって変わる。もし完璧なプログラムを書いて、どこからどういう質問をしても人間的であったとしても、その疑問は残る。
ソフィー>でも、人の知性、心は、私たちに<構え>によって変わるなんてありえないわ!
クロサキ>そうかな?君の心の<構え>君自身を日々変えてないかい?
ソフィー>自分との関係論?
哲学者クロサキの憂鬱 となりのアンドロイド