1976年 |
利己的な遺伝子 |
リチャード・ドーキンス |
分子の結合により生命が偶然できる確率は、全宇宙の海から一本の針をさがすよりもありえないことだ。しかし私達はここにいる。しかし、完全ではない。生命の存続は不安定な状態の維持にかかっている。それはたえず、応急修理をほどこし、数限りなく部品を交換することによってやっと旅を続けられる車みたいなものである。
私達の体の細胞は常に新陳代謝によって交換されていくが、三ヶ月でほぼすべての細胞が入れ替わる。言ってみれば、三ヶ月前の個人とはまったくの別人になってしまっているといっていい。人はこれを一生のうちに一五〇回から二百回も繰り返すのだ。
理論的には遺伝子は五〇億年以上も存在できるという。DNAに限界があるとすれば、いかなる状況下でも生存できる乗り物を設計できる才能に限界があるときだ。
この遺伝子を意識のあるものとは考えられない。彼らには私達についての知識も、彼ら相互の知識もない。進化に関与してる自覚もなければ、将来の発展の為に計画を立てたり、夢を見たりすることもない。ただ存在するだけなのだ。
私達の身も心も彼らが作った。彼らを保存することが、私達の究極目的ともいえる。鶏は次の卵を作る手段にすぎない。サルは木の上で遺伝子を保存する乗り物にすぎない。魚は水の中で、保存するタクシーにすぎない。
遺伝子は、ある意味で個人の存在を全く認めていない節がある。冗談じゃない。私達は占領されているのか?しかし、この証拠は強力だ、私達は死ぬが、遺伝子は死なない。老いる事すらなく、どんな環境にも合わせ乗り物を設計していく。進化と言う名のもとに古い乗り物は乗り捨てられ腐っていくが、遺伝子そのものは部品を交換してまた新しい乗り物にのって先にいく。
しかし、それでいいのだろう。私達は死ぬかわりに自由な意志を与えられたのだから。昔から人は−永遠の生命を求めた。しかしいつの世でも出される結論は一つだ。「限りある命だから尊い」、そこに愛や優しさも生まれるのだと。
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