われわれの心は、客観的事実ではなく、心像しか扱えない。心像というよりもメンタルイメージといったほうが分かりやすいかもしれない。いわば主観的な現象、心の中での思考のことだ。心の中で思い浮かべることができるものだ。客観的事実は心がなくても存在する。
では心像はどのようにして獲得されるのか。知覚を通してだ。知覚の重要な働きとは何か。違いを見出すことだ。区別し、同定していく。それが知覚の働きだ。さらに人間は、言葉を手に入れたことで、外にある実在の物体や運動のパターン、自分の心の状態などを記号化できるようになった。記号と記憶を照らし合わせることで、物事の理解が進んでいく。知らないことは分からない。わかることの第一歩は、まず言葉の正確な意味理解だと著者は言う。
さらに人間は、見かけの裏に隠れた事実を見出すこともできるようになった。たとえば太陽は東から昇って西へ沈むように見えるが、それは事実の一端であって全部ではない。実際には地球が自転しているから、そういう見かけの現象が起きるのである。見かけの裏のからくりまで理解すると、本当にわかった感じがする。
感じがする、というところがポイントだ。「わかる」ということは感情である、という。単なる手順を踏んで答えを出しても「わかった」気にはなれない。「わかった」体験は経験の一つのありようであって、事実や真理を知ることとイコールではない。
ではどんなときに「わかった!」と感じられるのだろうか。著者は新たなルールを発見でき、そこに新たな意味が見いだせたときだという。そして客観的データや数字の場合であれば、自分の操作出来る心像に置き換えられたときだという。東京ドーム○杯分、というあれだ。ある心理的事柄と、ほかの心理的事柄とが関係づけられ、新しい意味が生成されたとき、「わかった」と感じられるのだというのである。そうして秩序が生まれたとき、心はわかったと感じ、同時にそれに快感を覚えるのだと。
わかるためには知識の網の目が必要だ。でないと繋がりなど生まれようがない。また著者は「わかるとは運動化できること」だという。運動化のなかには、話すこと書くこと描くことが含まれる。要するに外に出して表現できることだ。そこまでイメージを明確化できることが「わかる」ということだという。表現できないのは、単に一時的に「わかった」と思ったに過ぎない。わかったように思っていたけど実はあんまり分かってなかったことが、人に話すとわかってしまうことがある。そういうことだ。
要するに、わかるとは、自分の心のなかにあるモデルを構築できることだと著者は言いたいらしい。他者との理解においても、要するに自分の心のなかに相手のモデルを作り、そこに相手の主張なり考え方なりを重ね合わせて、我々は理解している。外界にしか答えがない、たとえば自然科学的な物事の探索にしても、結局は自分の心のなかにモデルを構築し、それを発見と照らし合わせて検証していくわけだ。世界の中で生きていくこととは、絶えず自分の心の中にモデルを構築し続けていくことなのかもしれない。
なんだかこの文章はわけがわからなくなってしまったが、本書そのものは例などをひきながら丁寧に書かれている。直接めくってもらったほうがいいだろう。
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