倫理学の時間

鷲田小備太

 

人間は、自由な存在である。度外れた自由を満喫したいと考え、時には行動してしまう存在である。だからこそ、人間には、倫理という、共通に、守らなければならない規範(コード)が、必要になったのだ。

もちろん、倫理は自由の目的ではない。共通の規範が、どんなに立派に見えても、人間の自由の根本のところで、破壊するようならば、人間たちは、それをどんどん捨ててきたのである。これからも捨てていく。

プラトンは欲望のほしいままの自由にはしるアテネのデモクラシーを呪い、私利私欲の生じない、私有財産のない社会システムを打ち建てようとした。しかし、そこは、清廉潔白な士だけは生き残ることができるが、生身の人間は生息できない社会であった。だから、見事にこけたのである。

(プラトンの構想した理想の国家は、家族がなく、妻子は共有、私有財産のない、合理的に設計され、真善美が実現された「衛生」国家である。共産国家であると同時に、ナチが構想した国家社会主義にもよく似ている。)

この点では、歴史は、何回も、同じ愚かさを繰り返してきた。

マルクスが構想した共産社会は、エゴイストの住まない、したがって、生きた人間のすみえない、どこにもない場所(ユートピア)であるほかなかった。

しかし、倫理は自由の目的ではなく、条件である、ということを、その歴史事実を指摘するだけでは、倫理学にならない。なぜに、倫理は自由の条件なのか、を人間と社会の存在性格を解剖することで、示さなければならない。倫理学は、だから、生身の人間と社会に関する総合的な学なのである。

 


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