1964年 |
ベルの不等式 |
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アインシュタインが1935年に量子力学に対立するかたちで、もし量子力学の解釈が正しいなら、つぎのモデルが完成するはずだ――と挑戦状をつきつけた。
EPR実験である。この挑戦状に対し、コペンハーゲン派はついに、とけなかったが、30年後の1964年
についにベルによって回答はにもたらされた。
相対性理論によれば光の速度より早く伝わるものはない。
しかし量子力学(コペンハーゲン派)によれば、非極性により、A地点で粒子の測定した結果は、瞬時にB地点の粒子に伝わる。
これをアインシュタインは忌み嫌い「薄気味悪い、遠隔操作」といっている
こうした量子論への批判理論が正しければ、ある不等式が成立しなければならない。
しかし、実験の結果は、この不等式は満足されておらず、量子力学が正しいことが立証された。
これによってアインシュタインの最後の牙城「隠された変数」と量子力学の確率的予測が数学的に両立しないことがないことが証明されアインシュタインの理論は壊滅した。
アインシュタインの理論をを決定的に崩壊させたのが、量子状態ではベルの定理が否定されるとする実験による証明でした。 ここでこれら一連の経緯について論じようとは思いません。 それだけの知識が私に備わっていないからです。 従って、今から説明することは私の直観だけです。
私は、ベルの定理を光の実験で否定したとされることは、量子論の完全性も隠れた変数が存在しないことも証明したことにはなっていないと思っています。 その根拠は、光子は実在しないとする本論の結論です。 本文26章で、偏光現象のパラドックスを検討している箇所を見て下さい。 そこでは、光を分割不能の光子としたのではそのパラドックスを解釈できないので、光子がばらばらに分かれる下部光子のモデルを使って、偏光が示す現象を説明しています。 ベルの定理を光を用いて否定したと言うとき、光が光子という独立した素粒子として個別に空間を飛んでいるという前提が存在していると思います。 私は分割不能という描像を持つ光子の実在を否定するので、ベルの定理を光の実験で否定することと、現実の量子状態は何の関係もないと考えるからです。 実際、私が本論で光子の実在を執拗に否定している理由の一つは、このことを言いたいためでもあるのです。
そういう訳で、アインシュタインの主張はまだ生きているということにして、先に進みます。
http://www.fureai.or.jp/~kajita/kansoku1.htm
以前から量子力学の観測問題に興味持っていました。
「シュレディンガーの猫」や「月を見ていない時、その月は存在するのか?」
などは有名ですね。
今回、観測問題にしぼって書かれた以下の本を見つけました。
今まで読んだ中で、もっとも分かりやすく書かれていました。
要点をメモ的に抜き出してみました。
同じ内容を、言い方を変えて説明がなされています。
内容が分かりにくいと思うので、実際に本を読む事をお薦めします。
「量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ」
デヴィッド リンドリー著、松浦俊輔訳
青土社 2600円
著者は天体物理学を研究後、Nature、Science誌編集者を経て、
現在Science News誌編集者をしている、サイエンスライター。
量子力学では、観測対象は観測という行為の結果であり、それでしかない。
古典物理学では、物理的特性は明確な値を持ち、それを観測によって把握できるが、
量子力学では根底にある物理的特性は、観測が行われる前から実在性を持つとは
考えられない。
古典物理学では物理系は一定の特性を持っていると考えるのが通例で、
すでに存在している系についての情報をもたらす実験を構想、実行する。
量子物理学では、明確な結果を生むのは系と観測装置が合体したものだけであり、
観測が異なれば、合わせてみた場合、あらかじめある明確な状態があったと
することとは相容れない結果を生むことがある。
我々の習慣は、外部の実在についてどれだけ分かっているかに関係なく、
客観的な明確な実在があるという仮定の上に立っている。
観測されて初めて実在となるような「実在性」を扱える言語や概念を
見つけることは難しい。
ある電子について一つの情報を得ることを求めるのであれば、
他の情報については知らないままでいなければならない。
不確定性原理群全体の一例に過ぎない。
量子力学では、観測は観測する側とされる側とが相互作用して
ある結果を生む行為である。もともとある特性の決定ではない。
波動関数は電子を切り離して考えたうえでの電子の特性なのではなく、
電子と行われる観測、両方の特性である。測定が異なれば、
別の波動関数が必要になる。
電子そのものは一個の波動関数によっては記述されない。
それを記述する方法、つまり用いる波動関数は、どういう観測をするかにかかっている。
波動関数が何らかの形でその電子「である」と考えるのは誤解のものである。
波動関数は、観測される事物だけの独立した記述と考えるよりも、
ある系−観測されるものと行われる観測−を記述する。
波動関数には、ある実験や測定のあり得るいろいろな結果の確率を
計算するために知らなければならない情報が詰まっていると言える。
「波動」と「粒子」の二重性についても、ある特性を測定するか、
別の特性を測定するかであって、「本当は」どういうものかを
はっきりさせようとするのは見当はずれである。
物体が実は粒子であるのか、実は波動であるのかと問うことは、
意味のない問い方である。
二重スリット実験に置いて、光子がどちらかの道を取ったかに
ついての情報を求めるようなものに変えれば、干渉模様は消える。
波動関数の収縮が物理的な事象なのか、心理的な事象なのかは、なかなか言えない。
「いかなる基本現象も、観測された現象になる前は実在の現象ではない。」
観測された量だけを扱うことができるという考え方は、強い命令で
あるようにはみえないかもしれない。科学者はいつもそうしているように
見えるが、実はそうではない。科学者は自分が測定しているものは、
奥にある不動の実在の一部であり、我々が徐々にとらえられるようになる
客観的な世界が存在する、と言うことを想定している。量子力学はこれを認めない。
人間の意識や近くが観測問題の鍵だという主張もある。
同じ理論を用いる異なる観測者が、実験データの背後にある
「実在」について異なる推論を行えるという意味では、
量子力学は一種の相対主義を許容、要請する。しかしこの相対主義は、
適用範囲が厳格に制限されており、ERPにおいては、二人の観測者の
一致しないでいられる唯一の点は、二つの測定の間の時間における
電子スピンの状態を推定するところについてである。
量子力学のコペンハーゲン解釈は次の二つの項目に要約できる。
1.観測されていない量子的系は、正真正銘の不定の状態で存在する。
系はある特定の状態にあるが、まだそれが分かっていない、
と言うのは意味をなさない。(さらには矛盾につながる。)
2.観測という行為が、系とそれに対する観測についての適切な
波動関数から計算できる確率で、その系に許容された、
あり得る状態の一つを取らせる。
エヴァレットの多次元世界解釈は、それまで密接に一体だった平行する結果を、
観測がどう切り離すのかという問題に置き換えるだけである。
ベルの定理
EPR実験を行い、平均値を取ると、値は−2〜+2の間の値に
ならなければならない。量子力学においては、かならずしも
この範囲にはならず、2×SQR2の値になることがあると予想する。
EPR実験はベルの定理には従わない。量子力学と合わない理由は、
ベルの定理に置いて、測定されなかった残りのスピンを、
実際の測定ではなく排他的に決めたためである。
量子力学がベルの定理に従わなくても良い理由があるとすれば、
1.世界の事象はすでに決まっている。ビックバンにはじまり、
世界は一つの量子系と考えられ、すべての事象は関連している。
これは自由意志を放棄することになる。
2.ボームによる隠れた変数説。光速も越える瞬間的な通信を認めれば、
検出される対象間の相関はどんなものでも原理的に説明可能となる。
この場合には量子力学が「遠隔作用」を含むことになる。
コペンハーゲン解釈では、EPR実験の二つの粒子が、初めて観測が
なされるまでは一個の整合的な粒子系と考えなければならない。
より正確に言えば、スピンの測定に関心を持っているのであれば、
これらの電子を一個の量子系をなしていると考えなければならないが、
行っていることがその粒子がそれを作った装置を出て実験室を動く
道筋をたどることであれば、我々は自由にそれを別個の物体が
それぞれの道を進んでいると考えられると言うことである。
コペンハーゲン派の見方を取れば、ベルの定理は、電子を
相関する性質を持った別個の粒子と考えることさえ正しくないと断じ、
一方の検出器での測定が他方の検出器の測定に影響しないことに
ついての議論全体がどうでもよくなると見る。
いずれかの測定が行われてはじめて、電子のスピンが別個の
アイデンティティを持つと考えることが許され、そのスピンについての
どんな情報がそれぞれの電子によって運ばれ、また運ばれないかを
決めようとすることは、物理学的に無意味な問題と見る。
ベルの定理はアインシュタインが不可分に絡み合っていると思っていた、
確率と非局所性を分ける。アスペの得た結果は、非局所性は量子力学とは
関係なしに自然の一部を構成すると言うことを証明しているのであって、
根底にある完全で正しい理論が確率論的か決定論的かということについては、
この結果は何もいっていない。
予想がそもそも確率論的であるという事実はあるが、
それらが客観的で無いという事ではない。
実験結果が客観的実在、つまり、実験結果は「すべて」、
根底にある「同じ」実在と整合しているという意味で客観的な
実在を指しているとすれば、コペンハーゲン派の解釈はこれを許容しない。
実験の結果が代表する一部を認識した世界の、実在性への移行。
これは実際の証拠がないのにある結論に飛び移ると言うことである。
これは科学の進歩を可能にした飛躍である。古典物理学では
このような飛躍をしても問題はなかった。古典的な世界観にとっては、
科学者によって行われる観測が、正真正銘、根底にある実在の
観測だと言うことは、基礎をなしていることである。
この飛躍は古典物理学の動き方と整合しており、科学者は自由に
その観測がすべて、根底にある客観的実在のことをいっているのだと
考えても、矛盾や困ったことにはならないが、それは科学が科学者に
求める仮定ではない。
この飛躍したいという誘惑は、何百年にわたる科学研究の
成功に支えられ、根強くある。しかしそれはあくまでも
信仰の飛躍であり、科学的必然性はない。
量子力学は、実験の定義、手順、結果についての合意はできるが、
根底にある実在の存在については合意できないというのが
コペンハーゲン解釈である。
重ね合わせ:観測が行われる前のはっきりしない量子状態(不確定性)
混合 :はっきりしたことが起きたが、それをまだ知らない古典的状態(不確定性)
エーレンフェストの定理
電子のような粒子を表す量子力学の波動関数である、
個々の波束は、ほとんどのところでは、それが古典的な
小さな対象であるかのように動き回る。
たいていの場合、波動関数はそれを内部構造が識別できないような
規模で見る限りには古典的な対象と見なせる。それを微細な規模で見て、
その構造や物理的大きさを無視できない場合には、量子的対象の
ように振る舞い、必ずしも期待されることをするとは限らない。
月のような対象の全体的な古典的特性(位置、運動量、質量、形等)を
月にあるすべての原子の個々の波動関数を用いて定める際に、それらが
いくらかぼけることは避けられない。(量子的不確定性を少々持っている。)
月が古典的な基準からすれば、まったく予想されていない、
例えば突然軌道の反対側に現れるような、出来事をするかもしれないと言う
わずかな量子的可能性がある。しかし実際にはありそうにない。
脱コヒーレンス:重ね合わせされた状態についての確率が消えること。
脱コヒーレンスが言っているのは、観測装置が明確な結果を
生むのであって、量子的重ね合わせではない。
脱コヒーレンスは量子的成分で築かれた大きな系では必然的に生じる。
重ね合わせを消すことが観測をもたらしているのであり、
人間の介入は不要である。それは大きな系一般の特性であり、
「観測の行為」の特性ではない。
猫の「生きた」量子状態と「死んだ」量子状態が静的ではなく
動的であり、正確な内部の特性は、ある状態から別の状態へと、
つねにシャッフルされていると言うことを認識すれば、
観測問題は無くなるように見える。古典的な系の不可逆性の登場に
ついて言えば、ここで生じていることは基本的に関係する
膨大な数の状態の結果である。
終わり
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