原始仏教テーラワーダのスマナサーラ
「バカの壁」の養老氏とブディストの対談で進められる「希望のしくみ」で、印象に残ったくだりをすこし書きます。
養老「私の書いた唯脳論は、何千年も前にお釈迦様がもう行っていた 唯識論と同じじゃないかと思いました。」
養老「仏教は宗教ではないのですか?」
ブディスト
「信仰というのがあるのが宗教です。」「釈迦は、<信仰>と行為そのものを否定しています。」
「日本には、釈迦そのものより、その派を起こした人を信仰する。<祖師信仰>なんですね。」
「哲学はアレコレ難しく考えて、<こう生きろ>という結論がない」
「逆に宗教はアレをしなさいといういうのでうが、−なぜ?−と聞かれると答えようがない」
「仏教はただ真理を追究するだけ。<こうしたらいいじゃないですか?確かめてみてください。>と強要しない。」
「真理は誰がどこでやっても同じ結果になる。そして確かめられる。だから<信じる必要がない>、したがって、信仰を絶対否定するのです。もちろん<祖師信仰>なんてナンセンス。」
私は神がいるとは思えません。しかし、魂の救済は必要と思います。
統合は無宗教の人でも救える救済です。
科学とユダヤ神は今まで何度も語られました。
科学とキリスト教も今まで何度も語られました。
科学と仏教も今までいくつかあります。岡野氏もウィルバーもそうですね。
キリスト教的哲学としてのホワイトヘッド
仏教的哲学としての西田
統合による救済で、無宗教もユダヤ教もキリスト教も仏教も哲学も科学もすべて救済できなければなりません。「含んで超える」です。
私は神がいるとは思いませんが、今もし地球からまったく宗教がなかったら、世界の多くの地域で道徳や倫理は耐えられないと思います。崩壊し平和とは程遠い状態になりそうです。
しかし、われわれは、宗教亡き時代を生きて行かねばなりません。
今の所は神を否定しないで、含んでおいて、統合による救済を作っておけば、宗教亡き時代にも、世界は耐えうると思います。
しかしはたと思いました。神道を置き去りにしてるじゃないか!
今、日本の神道=多神教に私は着目していて、日本人の心理を知るには、必要不可欠と思うようになりました。
神道には、経典がない。あえて言うなら自然そのものから読み取る。
ギリシャ、ローマは多神教で布教の自由があった、しかし、そこで布教されたのは、排他的な一神教。
しかし多神教は自分を排除しようとするものまで、受け入れてしまう脇の甘さゆえに逆淘汰されつつあります。
地球規模の宗教戦争となった今、必要なのは、多神教のスピリットと思っています。
科学ってのは一神教みたいなものなんですね。真理は1つじゃないといけません。(だから含みやすい。似てる。)
それじゃ多神教的な科学解釈ってありえないのか?
私が行っている統合と多神教は、相反するのではないか?
これは統合ありうるのです。
例えば、原子の一粒が1神です。原子が2粒になれば、2神となります。周期表の数だけ神の種類がいます。
これが、複雑に非線形に組み合わさり、人となりやがて、高次な魂をもつにいたります。
このアナロジーであれば、科学は多神教を廃除しなくても、統合の旗下に含んで超えられます。
自分も他人も大切にする。→他人を大切にする自分を大切にする。になりえます。
ちょっと思いつきで、書いてしまったかな?まあいいか
では、また論文を送っていただければ、幸いです。
スマナサーラの続き:
道徳は幸福の必需品
道徳は経験の中で作られた。これはもちろん論理的でもある。
「なぜ人を殺してはいけないか」は、人を殺してもよいようなルールを認めると自分も生きられないからです。
20世紀は知識の世紀。21世紀は智慧の世紀
料理で言えば知識は素材。智慧は腕前
答えを教えるのが教育ではなく、方法論を教えるのが教育
6章 希望のしくみ
無常だから希望がある
ちょっと先はわからない。わくわくする。それが希望。
絶対神はありえない
一神教は、自分と同じ神を愛する人としか隣人愛が成立しない。
隣人を愛する行為は神を愛することを中心に付随物になっている。
「人間そのもの」を愛するロジックとのものが存在しない。
第7章 共同体として生きる
「存在」というのは「無常」です。つまり前の状態がごろごろかわる。コーヒー変わるからこを呑める。
共同体として生きるには智慧が必要です。それが慈悲です。
一神教では、慈悲はピラミッドの頂点から下辺に与えるもの
慈悲は本来、直接人と人の間に成立するもの
自己犠牲することのばからしさ
皆の為になることはイコール自分の為になっている。
今の人は不幸せだと思うのは、社会的役割意識を持たされていない。
どうすれば共同体を喜ばすことができるだろう。そう考える子供を教育できれば、もはや、コマゴマ教える必要はないはずなのだ。
第8章:智慧と方法
マンネリを感じたらそれは自分の進化が止まってしまった
第9章 変われる人変われない人
「心が成長する」というのは、頭の分解能力(Analysis)が働くこと、
そして、「組みあわせる能力」(Synthesis)の2つ
最近はAnalysis偏重になって、心もばらばらになっている。
何を選択しても後悔する人にどんなアドバイスを
何も選択しなければ、最悪な後悔をするよ。
両方こなすこと、それが努力ってもの。
苦しい+希望=幸せになりたい
苦は現実を認識すること。
でもそこに期待や希望が加わると事実でなくなってしまう。不幸になる。
死を恐れたり。
希望の反対は?絶望 無望
期待・希望という苦を作る原因から自由になっている人にとっては、老いることは、苦でもなく、楽でもなく、単に事実で平安なんです。
これ「涅槃・解脱」です。
仏教には禁欲的なイメージがあるが、これは間違い。後で、後悔することをするなということ。