二−1 性の善悪は何によって判断されるのか?
生命の動きは、基本的に浸透する動きであり、相互に乗り入れて融合に向かう動きであって、この
融合力が愛である。 従って、種の保持のために二人の人間が融合して「ポテンシャル真人類」を創るという生命界にと って最重要な行為には、最大の愛が原動力として働くはずである。故に、愛のあり方が当然問題とさ
れることになる。 従って、性に関する言動の倫理的善意は、愛(思いやり) に資するか、愛を傷つけるかということ と、真人類への進化に資するか、妨げになるかということによって決まってくる。
*二−1−@相手個人に対する思いやりに背く場合 相手を単に快楽の道具としてしか見ない場合とか、その行為によって相手を動物に退化させること
が明白にわかっている場合には、<理性的存在としての相手の尊厳>を傷つけて、相手に対する真の
思いやりを傷つけることになる。特に<真人類となって無限に価値のある存在となりうる人間>が柏
手であるから問題である。最大の愛を向けるはずだからである。 その上、性においても超自然化現象が起きていることを忘れてはならない。 即ち人間においては、性はその動物的械能を完全に果たすと同時に、それよりも遠かに次元の高い精
神的な価値を実現することがその本来の目的になっている。二人の人格的な交わりを高め<人間とし
て進化・成熟するように助け合うこと>に、性本来の目的がおかれているのである。即ち、その後す
ぐ述べるように、人間の成熟にとって最も重要なことは<自分自信を心をから受け入れる>ことで
あり<自分自身が素晴らしい価値のある存在だ>ということを自覚くすることでもある。ところがそ
のためには<自分が最も価値のあると思っている相手が、 自分も最も価値のある存在として受け入れてくれる体験>が何よりも必要になる。そして愛の中で
の性の結合こそ、その最も優れた体験の一つなのだ。性行為の超自然化とは、正にそのことである。
だから愛を傷つけてはならないわけである。だからこそまた、人間においては、子供を産むことに直
接結ばれてない性行為も自然は許している。
*二−1−A同時の人たちに対する思いやりの背く場合 不倫が問題となるのはそれが、自分本位によって配偶者や子供に対する思いやりを傷つけ破壊する
ばかりか、それによって種(社会)の基本的単位である家族を破壊する危険があるからである。
性行為においては、周囲の人も含めて、誰も傷つけたり悲しませたりしてはならないのである。
(結婚の競争相手だった人に対してはしかたないとしても)。故に、たとえ夫婦の間でも、第三者に
見られるような状況の中で行為する事は風紀に反することとしてどの社会でも禁じられている。
それは局留の人たち(真人類へと進化するはずの人たち)を動物的にし、退化させることにつながる
からである。
*二−1−B自分自身に対する思いやりに背く場合 誰かを傷つけてはならないことがわかっているのに性行為をあえてする場合、それは、その人に対
してだけではなく、自分自身に対しても背くことになる。肉欲に負けることであり、真人類に進化す
るはずの自分を動物に退化させることだからである。 また、心の安らぎを失うような行為は、人間の理性的本性に矛盾する (調和しない) こういである
から、自分自身に対する真の思いやりに背くことになる。性行為は、常に心の安らぎが伴うものでな
ければならない。心の安らぎをもたらすか、失わせるかが、しばしば行為の倫理的善悪についての具
体的目印となる。