一神教の闇―アニミズムの復権
安田 喜憲 (著)
プラトは信者ではないが、一応教養として。
文明には「狩猟系」「農耕系」の2種類あるのは聞き及ぶところだ。
自然を崇拝するアミニズム、環太平洋地域の稲作漁撈文明は「美と慈悲の文明」を持つとする。
その中でも一神教と狩猟系が結びついた畑作牧畜文明=「力と闘争の文明」が、世界に環境破壊と軍事紛争を世界にばら撒いた。
アニミズムの復活が望まれる。(アニミズム ルネッサンス)
全てのモノの中に、精霊を感じ崇敬するアニミズムの考え方は、E.B.タイラー以来、宗教の原初的形態と見なされてきました。進化し洗練された後代の宗教に当然駆逐されるべき野蛮な考え方とされてきました。しかし著者は、現代の多くの危機は、進化した唯一神を信ずる超越宗教の世界観から生じたものだと考えています。
一神教の教えに基づいた自然との関わり方、生命への考え方などは、近代技術を生んだ母体となりえたが、この考えは環境破壊や生命の殺戮を平気で行うテロなど人間の闇の部分を正当化すらしてしまう。
一神教は、敵を作り続け発展する。和をなす文明とは違う。
*日本には文明がない?
ある。「現世的秩序の文明」がある。これがアニミズムと融合したのが日本である。
アニミズムは「超越的存在(神)」より劣った野蛮なものと見られていた。
さらに西欧からは、「現世利益」を求めるものは野蛮とレッテルを貼られた。
しかし「秩序」なのである。現世的「利益」ではなく、現世的「秩序」であることは、西欧人には理解できなかった。
森は現世的秩序を代表する。人間が考え出した天上の世界よりもはるかに美しい・
*宇宙は破断している。
宇宙論で神が否定されたとしても、生命を生み出した奇跡の中に神の存在を認めるべきなのである。
*魔女狩り
西欧は未開文明は生贄を行うとして、野蛮と決め付けたが、自分たちもそれよりひどい「魔女狩り」を行っている。
自分たちが置かれた環境の苦しさからの解放を求めて、弱いものにぶつけたのである。
当時は気候悪化があり、森林があれ、薪がなくなり、生活環境が悪くなり、ノミによってペストが流行った。
犠牲者は数十万人から600万人と開きはあるが、400年間つづいた。
さて、魔女狩りの思考は形を変えて今でも続けられている。
仮想敵国をつくる。(ソ連、イスラム)相手側も同じ思考だから、戦いが戦いを呼ぶ。
多神教は、例えば、天候が悪いのは、龍のしわざである。とか思考の逃げ道がある。
それを許さない一神教は、我々の神のしわざではないから、敵のせいだと自己を正当化しないと崩壊してしまうのである。
*アニミズム原理
一神教は、1教義に従わないものは、滅ぼそうとする。
アニミズムは全員含んで現実世界の命に調和に慈悲を与えるものだ。木にも、川の流れにも。
地球を救済するために「アニミズムの罠」 を仕掛けるべき、
@美と慈悲に満ち溢れた「生命文明の構築」
死んだ魂は、遠い天国に行くのではなく、身近の裏山に行く。これがコミュニティーを大切にする。
死んだ後に天国に行くのが、望みなのではなく、子々孫々に供養してもらうのが、最大の望み。死んだ後もこの世が永続的に続くことを願う。
Aアニミズムによる「島国性の再評価」 :島国民族は、世界が有限である前提に立つ。和の精神、もったいないとかの知恵をもつ。
Bアニミズムによる「女性原理の復権」
:農耕では、男女の地位が同じである。縄文土偶も女性像は半分。イースター島は、男中心で、モアイを作る為に島を伐採しつくし、滅びた。
女性は命を生むという行為から、命の再生と循環を実感し、男は拡大と闘争にカタルシスを感じる。
一神教の誕生は、父性原理が女性原理を支配する。女性原理を復活させる為にアニミズム・ルネッサンスが必要だ。
Cアニミズムによる「紛争の回避」
田では、自分のところで、水を使いきらず、相手に残しておかなければならない。利他的でなければ、コミュニティーが崩壊することをよく分かっている。自由無き美しさ。
Dアニミズムによる「アニミズム的応戦」
:あたらな文明に出合った時、対応は主に2種類。拒否するか、いいところを獲るかである。幕末の譲位主義と、開国主義のようにだ。しかし第3の道がある。福音主義である。
日本とガンジーなど一部だけが、できた。
E「アニミズム連合」の構築
F「全球アニミズム化運動」の展開
Gアニミズムの心を核にした「ハイテク・アニミズム国家」の構築
稲作漁撈民にとって3は聖数。1は孤立、2は対立、3は調和・和のシンボル。大和3山
命が軽くなった。最近お葬式があまりに簡素化されてる。まるで、早く済ませたいように、いつ死んだかもしらず、「身内さけで、密葬しました」などと後日通知だけがくる。
*ローマクラブを越える未来の文明モデルを構想する。
ローマクラブから京都クラブへ
ローマクラブは禿山モデルである。
京都モデルは森のモデルである。
「力と闘争の文明」より「美と慈悲の文明」を、と言われれば、とくに異論のあろうはずはない。