知の触媒

 イリヤ・プリゴジン

 

知の断片化は可能な限り避けるべきである。分割するたびに大切な何かが失われていく

本来ヨーロッパ流の学問には文系と理系の区別はない。

日本の大学だけが文系と理系とに別れているのであり、このことが、日本人の「私は文系だから、科学は苦手で…。」とか「私は理系だから、文系の学問が苦手で…。」などという思考停止を鋳造している。こういう発言が許されるのは、日本だけぐらいと考えたほうがいい。
そして恐ろしいのは、ここから排出される科学者は、その研究がどのような結果をもたらすかを考えなくてもよいのだ。 (政治家は倫理学を一切しらなくても当然と自らプンプンと臭わせても、許されるのいは、やっぱり変だ。)

核兵器などを作るのになんの疑問ももたないような 科学者は、知者とはいえない。私たちは統一的な、一般理論を構築する段階に進化上至ったのだと思います。

いままで、宗教というのが統一的な視座という時代が長かった。これからは科学の時代ではないかと言われてきたが、いままでのアプローチはすべて分断的であり、むしろ統一的な視座の形成を阻害している。散逸構造論は統一を約束するものではないが、こうした分断された知恵の触媒をなりうる。それこそ、ダイナミックな秩序といえることができるかもしれない。

大きいシステム

例えば水の分子3個を1セットだけを取り出してみると、それは、氷でもないし、水蒸気でもない、さらに水でもありません。ところが、コップ一杯の水の液体は、氷という固体にもなり水蒸気という気体にも相転移をします。つまり、これは小さなシステムが集まり「大きなシステム」や「複雑なシステム」なると新しい性質を獲得することをあらわすわけです。つまり物理現象は、要素や個々の対象に全体のシステムが反映されているわけであり、全体のシステムに個々の対象が反映されているのではないのです。 そして「大きなシステム」は無限に連続しているのです。(無限性の定義を考えた時に「空間的に大きい」とということは意味せず、「連続性」の問題として捉えることが正しい。)このことは物理現象のみならず、進化や環境への理解、社会現象において、顕著にあらわれる。物理現象より無限の連続性がより複雑に絡み合っているのである。

還元せずとも複雑な状態その物も、本質なのであるということです。

社会や我々の知識自身においても、これは同じことが言えると思うのです。

個人個人をいくら研究しても集団としての人類を知ることはできない。どうしても集団性というものを考える必要があるのです。集団性とは全体確率性のことです。

こうした全体確率性を記述するには総合的な基礎にたった、新しい数学が必要となります。

なぜならこうした総合的な複雑なカオス系の進化を記述するには従来のベースでは不可能だからです。

われわれは、これを記述する為の統計学的手法を開発してるのです。

単純に散逸構造論だけを取り出して、あまり関係のない領域にも表面的にメタファーとしてあてはめ、それで全てを説明した気になるというようなことは、もっとも危険な思想であり注意せねばなりませんが、

分断された知識をいくらかき集めても現実世界がそのようになってないため説明不可能であった解答が、より統一的(ユニティ)で集合的(コヒーレンス)な統合性(インテグレーション)の高い知恵からは高次元の解答が引き出すことが可能なのです。

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