バイオフィリア

自然保護の倫理

 E.O.ウイルソン

ここに一つの疑問があったとしよう。どのような答えを出すにせよ、その疑問の問いかかけ方はだいたい次のような段階を経てくる。

第一段階:その疑問に科学的根拠を証明できない最初の時点で、疑問は倫理的に正しいかどうかが問われる。

第二段階:時が経ちその疑問に関する知恵が増えていくにつれて、人々が抱く疑問は道徳的なものから離れ、情報を求める。つまり狭い意味での「知的な」ものになる。

そして最終的に、問題が充分に理解されると再び倫理的なものに立ち返る。

環境保護問題は、この第一段階から第二段階へ移行しつつあり、続いて第三段階へ入っていくものと考えられる。

自然保護運動の未来は,そうした倫理的な面をめぐる論議の進展にかかっている。この運動が充分な成熟を迎えるか否かは、生物学及び新たな学際的領域である生命倫理の進展と分かちがたく結びついているのである。

 なぜただの都市よりも公園のある都市を好むのか、究極的な理由を理解することにある。より意義深く永続性のある「自然保護の倫理」を作り上げるためのゴールは、感情と感情の理性的な分析とをうまくひとつのものにすることなのだ。  

 今この瞬間に全員にとって利益につながることでも、十年後には悪しき結果に終わるといった事はよくある。倫理が倫理足るゆえんは、それが遥かな未来をも視野に入れているという点にある。

 自然保護の倫理が抱えている困難の一つは、人間が自然淘汰のおかげで、主として生理学的な時間 スケールでものを考えるようにプログラムされてしまっている点にある。人間の精神は数時間あるいは数日の間を行き来しており、視野に入れられる期間は最長でもせいぜい百年ほどである。

 私たちが遥かな未来について考えるのは、子孫達のためでも抽象的な倫理のためでもなく、自分自身の為なのだ。私たちがこの判断基準にどれだけ忠実に従い、それをどう言葉にして言い表すかは、極めて重要である。というのは、もし私たちの生命というプロセス全体が、ヒトという種と人の遺伝子を保護するという方向に向けられているなら、未来の世代のために配慮することは、およそ人間にできる限り最高のXX的行為だからだ。

 これから数年のうちに起こりうるできごとのなかで、私たちの子孫達にとって最悪のものは何だろうか?核の破局も恐ろしいことだが、数十年かかるがやがて自然の力により癒される。しかし修復するのに何百万年もかかる最悪の破壊が今行われようとしている。それは環境破壊による遺伝子及び生物の多様性の損失である。この愚行についてだけは、子孫達は私たちを決して許してくれまい。

 現在の絶滅率の推定値は、控えめに見積もっても年間一〇〇〇種に及んでおり、一九九〇年代には この数値は年間一万種、つまり一時間当たり一種にまで跳ね上がるものと考えられている。今後の三 〇年間に、一〇〇〇万種に及ぷ生物が姿を消すかもしれないのだ。  この自然界の大量出血を、いわゆる「ダーウィン的な」適者生存のプロセスだとみなすのは大いなる間違いである。

 ヒトという種のもたらす破壊性は、地球の歴史に置いてこれまでに類を見ないものだ。それはほとんど、一億年おきに地球に衝突し、巻き上げた塵で大気を覆ったと考えられている巨大隕石の破壊力に匹敵する。

 近い将来のことだけを考えて、何がベストか選択するのは易しい。また、遥かな未来のことを考えたとき何が最善かを選ぶのも容易だ。しかし、近い将来と遥かな未来の両方にとってベストの選択を行うことは極めて困難であり、しばしば内部矛盾を伴う作業でもある。そこで必要とされるのが、倫理的な規範の確立なのである。

 永続牲を持つ倫理的規範は、抽象的な前提だけから生み出されていることはない。それは人々の感情や合意によって、歴史上の事例から帰納的に慣習法(コモン・ロー)に似た形で作り出される。 知識と経験の拡大や、精神的発達の後成説的ルールに影響されながらも、責任感のある善意の人々が 反対意見を綿密に検討し、規範と方向性について合意に達するという過程を経た上で、成立するのである。

 種が絶滅していくたびに、数百万にも及ぶ遺伝情報と長きにわたる歴史が失われ、人類に大きな利益をもたらしたかもしれない可能性だけが、永遠に試されることもなく残されるのである。

 種が一つ絶滅へと向かう度に,歯止めが一つずつ後退し、取り返しのつかない損失が生じていく。 今必要なのは全く新しく、より説得力のあるモラルの倫理を作り出すことである。そして、自然保護の動機付けの一番深い部分を見据え、なぜ私たちは生命を愛し、保護しようとするのか、それはいかなる条件下で、いかなる事態に直面したときなのかを理解しなければならない。

 実のところ、私たちは世界を支配してもいなければ、理解してもいない。ただコントロールしていると思いこんでいるだけだ。  人間の精神が、生存のための器官という本来の形でより良く理解されるならば、生命に対する畏敬の念は、純粋に理性的な理由から、より深まって行くだろう。

自然哲学(ナチュラル・フィロソフィー)は次ぎに示すような人間存在のパラドックスに明快な解決を与えてくれる。活動範囲を絶えず拡張したがる衝動(個人的自由への衝動と言い換えても良い)は、人間の魂の基礎をなすものだ。しかし、そうした拡張を持続させるためには、利用しうる生命の 世界への極めてデリケートな管理的責任が必要とされる。一見すると、拡張への欲求と管理的債務は 互いに矛盾する目標を持つように見えるが、実はそうではない。自然保護の倫理がどの程度深いもの であるかは、自然に対する二つのアプローチが、どれだけお互いを変化させ、強化させているかによ つて測られる。このパラドックスは、大前提を変えることで、究極的な意味での生存に押した形へと 解消することができる。それは又、人間の魂を保護することでもあると私は考えている。

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