科学するということ

 

アインシュタイン現実の世界に比べれば、科学などはごく素朴で、他愛ないもでしかない。それでもやはり、我々が持てる物の中で一番貴重なものなのだ。

「答えが分かるまで数式書くな」という格言がある。

アインシュタインのエレベーターの思考実験しかりである。

物理学にとって数式とは、理論の量的正確さや表現の厳密さをあらわす為の絶対必要な言語であるが、先に頭の中でインスピレーションが先にあるべきなのである。式はインスピレーションが正しいかを検証するものなのである。

では、そのインスピレーションを人は自然からどうピックアップするのだろうか?

そのインスピレーションの内どれだけを式化できるのだろうか?

式化できないピックアップされたインスピレーションは破棄されるべきか?

インスピレーションのプロセスが脳の中で数学的計算の結果であるとしたら?

自然に内に存在するものの内、いまどれだけが、式化できているというのだろうか?

文頭の格言は極論であるが、確かに式だけの世界を飛び出して底辺は常に広くもっていたほうが良いようである。

厳密な科学と言えどももっとも謎に満ちた物に知的手応えが感じられるのだ。

ボーム>数学だけが現実を扱う唯一の方法だという仮説が日増しに強くなっている。しかし、現実をモデル化する際に、数学にはあまり頼らないで、隠喩(メタファー)と類比(アナロジー)の新しいよりどころを探るようになるだろう。

 

リンデ>合理的なツールで不合理の境界線を研究することが科学です。

メダワー>科学で答えられる種類の疑問に答えるのに、科学の力には限界がない。

まるで神が幾何学者であるかのように考えるのはバカなことです。

ベートーベンのシンフォニーを気圧の波に置き換えて何の意味があるんだい?

 

ラッセルやホワイトヘッドなど論理で科学を肯定できると考えたものはゲーテルによって否定された。なぜなら、公理や論理は有限なのに、数という無限を扱おうとしたからである。

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