バイオフィリア

適切な場所

E.O.ウイルソン

ホモ・サピエンスは、どんなところにも住めるただ一つも生物種だと言われることがある。氷原の上や洞窟の中、海底から宇宙空間に至るまで、あらゆる所に住めるのが人だというのだ。

 しかし、それは半分は真実で半分は誤っている。人間は、自分たちの住む環境条件がある狭い許容範囲の中に収まっているよう、常に環境に手を加えていかなければならない。そして、生存可能な 最低限のレベルをひとたび超えるやいなや、今度は身の回りの環境を表面的にでも改善するために、 多くの時間を費やすようになる。自分が住んでいる場所を、一般に事実的判断基準とよばれるものに従って、より「住みやすい」ものにすることが目標とされるのだ。

しかし「住みやすい」のみが全てではない。何時の日か、私たちが宇宙に飛び出し、その生涯を全て月面の宇宙基地で過ごさなければならないとしよう。ここにはいなかる生命も存在していないという点を除いては、およそ人が考えられる人間の目を楽しませるものがあったとしよう。庭園の植物は プラスチックで造られた人工のものであり、腕のいい職人が一枚一枚、茎の一本一本にいたるまで色を塗って仕上げたものだ。

しかし、池の水面にも土の中にも、微生物一つ見つからない。聞こえるものといえば、滝の音が刻む不規則なリズムと、時折扇風機の風がプラスチックの木々を揺らすざわめきだけだ。まさしく死んだままの世界なのだ。これでは「住みやすい」とはいえないだろう。こうした世界では、人類はその理性を失いかけるだろう。宇宙旅行が現実のものとなった現在では、それはもはや理論的可能性以上ものとなりきっている。

 人間の精神は、それ自体を越えた美と神秘がなければ、その担ってきたものを失い、より単純で非情な形へと移行して行きやすい脆い性質を備えている。人工物は、それが模倣しようとしている生命そのものに比べれば、遥かに見劣りするまがい物にすぎず、私たちの思考を映す鏡でしかない。

 未来学者達が想像する究極の機械とは、その制作者に依存することのない自己複製ロボットだが、 これは本質的には擬似生命と呼んで良い物だ。しかしこうしたメカノフェリアすなわち機械への愛はバイオフィリアの特殊例にすぎない。

 人間の脳の特異な働きは、文化というフィルターを通じて作用した自然淘汰の結果に他ならない。 その結果、私たちは自然と機械、森林と都市、天然の物と人工の物、といった両極端の観念の間で宙づりにされ、この世界には存在しない均衡を求め続けることになった。

 私たちが本来生息したがっている本能的場所とは自然の中で家族や仲間として仲間と争いなく進歩的に生きることだ。

 

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