物質 |
哲学、宗教、文学、芸術、そして科学など、我々の全ての知的創造行為は「我々は何処から来て、何処へ逝くのか」という疑問への探求ではないだろうか?
こうした究極の問いには答えを出せないにせよ、何処までが解かっているのかは検証しないとその先には進むことはできない。
そういう意味で、21世紀に至ろうとする人知の結集と総合化は必要なものであろう。
ここ検証された事は消え去るものではない。
ここで我々は天動説的占有固定概念を打ち破り、新しい地動説を受け入れさせたプロセスをもう一度踏まなければならない。
パラダイムはこうシフトしてきた。
1:古典的精神一元主義:「物質世界」も「精神世界」もすべて神によるもの
2:物神二元論:「精神世界」は神のものであるが、「物質世界」は数学的世界のもの(デカルト)
3:近代的精神一元論:神は人の理性が創り出す。
カントの形而上学人の自我、意識、理性が全てを創り出す
近代的動的精神一元論;ヘーゲルの弁証法
4:機械的物質一元論的弁証法・人間の理性も物質が作り出すのである。マルクス
しかし静的思考から抜け出しきれてはいない
5:非還元的、動的、散逸構造論:
構造主義をへて:熱力学のエントロピーの概念を導入し始めてプロセス思考になってきたのである。次のようなキーワードになるだろう。「散逸構造」、「ブーツスト ラップ」、「自己組織化」「複雑系」
いずれも宗教から哲学への段階的以降であるが、哲学自体かつて哲学でありえたこともないし、実りある生産的なものでもない。
新しい世界観などというのは、哲学的問いにすぎず、本当には必要ではないのでは?
世界の人の世界観がかわるのならともかく、一人よがりの世界観では意味を成さない。
もし世界の人の世界観がかわるのなら、核の抑止力は核であるべきでなく、我々の心となることができるのだが。
よってここの物と心に2点の結びかたをいくら段階でのパラダイムの発展を望むより、新しい段階に踏み出さねばならない。
最初のパラダイムを用意したのはデカルトだが、この転換が広く受け入れられるには、コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートンなどの偉大なる科学者たちの継続的努力によってようやくなされた。
なぜこれほどの期間がかかったのかというと、これは同時に中世キリスト教的コスモロジーの支配を破壊するものであったからだ。
さてその後、「科学」という神が我々を支配し、「科学的」ではないものには、「罪」とされるようになった。
この2階層の後に3階層目が来るのだが、それは「量子力学」から始まった。
近代科学の集大成である、原始や素粒子の探求をするうちに、いままでの概念では説明の付かない、不可思議なリアリティとあい対するようになったのである。
この不可思議は科学者たちの情緒的な拒否という最大の歓迎もって迎えられた。なぜならそれを認める事は自らの存在にかかわる、強烈な危機であったからだ。
しかし新しいベースからこの不可思議は探求され続けた。
この潮流のなかで、東洋的世界観の再評価と最新科学との融合、生命へのやさしい視点と人間社会感への再認識が行われ、ホリスティック(全包括的)でエコロジカル(生態学的)な概念の創造がなされた。
主要な論理として