1999年

万物の理論

The Theory of Everything

ディヴィッド・ドイッチュ

David Deutsch

非常に難解な本だ。消化不足にて未だ工事中!

統合化のスケッチとしては、だいぶ広範で、その理想も非常に高い。

 重要なのは知るではなく、理解することである。

科学は何故を問うてはいけないというのは実証主義、道具主義であり、真の説明を与えることを阻害している。

「知る」から「理解する」に切り替えることによってそれまで、バラバラだった科学が必然的に一つの知に統合されてくる。

ではなにからなにへ切り替え、それまでの「分かる」が、どう「理解する」になるというのか?それによってどういう有意義な配当があるのか?

 

 

 

 

それまでの分かると非人間的にさせているギャップ

あたらしい「理解」とその配当

A量子物理学:

コペンハーゲン派

ギャップ:量子論を宇宙論に発展ささられない。

深刻な道具主義・帰納主義の犯されたていう。ここから理解は生まれない

エヴェレット解釈を導入。

量子論の全宇宙の解釈を両立できる。

理解を導入し道具主義・帰納主義を排除。

+B進化論

DNAの発生は偶然の結果である。

ギャップ:その偶然に頼ることは、宇宙年齢の時間から計算して不整合である。

 

+C計算理論:

全てもものを説明できるがごとく、君臨し数学のつきあたった不完全性定理という壁にブチ当たる。

計算理論は伝統的に純粋数学として完全に抽象的に研究されてきた。

しかし、これでは、計算の本質は失われる。数学的真理は、物理的世界に関する我々の知識に依存しており、それよりも信頼できるものではない。

 

数学の目標は数学的確実性ではない。まして数学的真理ではない。数学の目的は数学的説明なのだ。

数学的説明ができなくても説明による理解による真はありうる。

+D認識論

意識は全くのなぞの分野であった。

意識を多宇宙にまたがる複雑性と理解すれば、結論はだせないが、意識と物理的過程を両立することができるようになった。

=万物の理論

この解釈の導入で今までの科学では説明できなかった、自由意志の存在の問題を解決する。多世界解釈によって自由意識を可能とし人間性の復活が可能になる。

 

 

 

 

なぜの復活

*「知る」から「理解する」へ

古代の知識者は知られていることをすべて知ることができた。

しかし現代においては、知られていることがあまりに多すぎて、ほんの一部の専門家にしかなれない。

 例えば、星の運行はあまりに数が多すぎてその全てを「知る」ことはできないが、その原理を我々は「完全に理解」している。

 

つまり、重要なのは、「知る」ではなく、「理解する」ことのはずである。

 

 物理学者のなかにも「理解」を重要視しない人たちがいる。

道具主義」といわれる人たちだ。その主張は、科学の理論は結果の予測をすることであり、予測と結果に整合性があれば、理論は何でもいい、あるはまったくなくてもいい−という考え方だ。

 コペンハーゲン解釈は深刻な道具主義に犯されており、そういう意味で排除される。

 

*万物の理論 

 一般的に万物の理論というと、物理学のフィールドを想像し、統一理論の完成を思い浮かべるだろう。

しかし、ドイッチュの万物の理論はもっとひろくて、式でかくならこうなる。

 

A量子物理学+B進化論+C計算理論+D認識論=万物の理論

 

それぞれの分野でまず理論が完成しても、それをさらに統一する究極の理論があるだろうというのである。

それぞれの分野で完成してない理論を列挙してみる

1)物理の分野

光の正体:はたして、波か粒子か、はたまたその両方の性質をもつのか?

量子論と相対性理論の融合:

力の統一理論:もっとの極みにきているのが超ヒモ理論だろう。

2)進化論の分野:主として生物の進化にかかわるもの

  起源と進化

3)計算理論の分野:知識の理論

4)認識論の分野:コンピューターおよびそれで原理的に計算できることおよびできないことにかかわるもの

ソフィー>これほど広範な分野を一つの理論体系で結びつけられるものだろうか?

ドイッチュ>一見無関係に見えるかもしれないけど。これから話すけど、大変深い多様な関連が発見されたんだ。

それは同時にどれか一つの主題をもっともよく理解できるようになることはもはやありえない。この4つは一緒になって一つの整合的な説明構造体を形作っているんだ。

 

例えば、生物学の法則は、物理法則の高レベルの創発的帰結である。同時に物理法則のいくつかも生物学の法則の創発的な帰結でもある。

こうみると高レベル低レベルという用語自体が不適切になるけどね。

 

統一ではなく、ファブリックととらえるべき

ドイッチュ>その影響はあまりに遠くまで及び、世界に対する我々の理解を包含していて、わたしの見るところでは、最初の真の万物の理論と呼んでしかるべきものになっている。 

 

ドイッチュ>われわれは観念の歴史の意義深い瞬間−われわれの理解の範囲が完全に普遍的になり始める瞬間−に到達している。われわれの理解はこれまでは、実在のある側面、全体を代表しない側面のみにかかわっていた。

だが未来には、我々の理解は実在について統一された考えにかかわるものになるだろう。

 

この最後の偉大な統合からわれわれが受け取る配当は、それ以前のどの理論から得られるものを上回る。

というのは、ここで統合され、説明されるのは物理だけではなく、そして科学だけでもなく、可能性としては、哲学、論理学、数学、倫理学、政治学や美学という広大な範囲だからである。

われわれが現在理解しているもの、そしてまだ理解していないあらゆるものを説明するのだ。

 

だれでも子供の時はソレを知っていたのかもしれない。しかし単に知っていたにすぎない。でもこの理論ではソレが説明できる。

では、その4本のより糸を順番に1本づつ見てみよう。

A量子物理学

+B進化論

+C計算理論

+D認識論

=万物の理論

 

はたして、その4本をどのように織るべきか?縦糸は分かるが、横糸は? 

 

A量子物理学

+B進化論

+C計算理論

+D認識論

1.万物の理論

 

 

 

 

2.影の宇宙

多世界は実在し、その証拠は、光の干渉縞でわかる。

 

 

 

3.問題と解決

 

 

 

 

4.実在の基準

 

 

 

論は否定できるか?帰納主義はいけない。カールホパーの進化的認識論は生物学を統合する重要な洞察

5.仮想現実

 

 

理解は脳による。脳は全て神経からの信号によって理解をする。

 

6.計算の普遍性と限界

 

 

無限についても仮想できる。

 

7.正しさの根拠

 

 

 

帰納主義の否定

8.生命の宇宙的意義

 

○進化

 

 

9.量子コンピューター

○物理

 

量子コンピューターにより、今まで原理的に不可能だった計算が可能になる

 

10.数学の本性

 

 

数学的真理は、物理的世界に関する我々の知識に依存しており、それよりも信頼できるものではない。

○認識

11.量子的な時間

○物理

 

 

 

12.タイムトラベルのパラドックス

○物理

 

 

 

13.四本の撚り糸

○物理

○進化

○計算

○認識

14.宇宙の終わり

○物理

○進化

○計算

○認識

 

 

 

 

物理

進化

計算

認識

物理

多世界解釈

生命の宇宙的意義はなにか?

量子コンピューターにより、今まで原理的に不可能だった計算が可能になる

 

進化・生物・生命

進化論と量子論を直接的にむすびつけることは、自己相似により可能だ。生命のような創発的現象が、ミクロの物質より基本的だとう還元主義は間違いだ。

ダーウィン・ドーキンス

 

カールホパーの進化的認識論は生物学を統合する重要な洞察

計算・数学

 

 

チューリング・ゲーデル

バーチャルリアリティー実在は全て仮想できる

認識・

 

カールホパーの進化的認識論は生物学を統合する重要な洞察

バーチャルリアリティー実在は全て仮想できる

カールホパーの知識論

 

ドイッチュ>数学の目標は数学的確実性ではない。まして数学的真理ではない。数学の目的は数学的説明なのだ。

さあ、これが万物の結論だよ。魔法じゃないだろ?

 

1.万物の理論

2.影の宇宙

スリットの穴からの干渉縞実験→詳細は「影の光子」

光子が一つでもスリット実験の結果は同じになる。なにかに干渉している証拠だ。

それは、平行宇宙からくる影の光子との干渉である。平行宇宙は、光子との干渉を通じてのみ存在を認識できる。あなたのいる「この宇宙」だけが「実在」の全体ではなく、「この宇宙」と膨大な「平行宇宙」の両方を含めた「多宇宙」が真の実在である。実在の全てを知ろうとするとき、多宇宙を理解することが前提条件である。

3.問題と解決

帰納主義は、がいかなる結論も正当化できないことは、説明した。

そして、科学的発見はカールホパーの進化的認識論に説明されるように、テスト可能でない、(反証可能性のない)理論は全て即座に退けられる方法の方が、正しい。

そのプロセスは、以下のようになる

  1. 問題発見→2.憶測された解答→3.実験を含む批判→4.誤った理論の置き換え→1.に戻る。

このような循環の中で、批判に常にさらされる。永遠に完成することはない。

又このプロセスは生命の進化にもにている。科学の進化と生物進化の類似性を誇張したいとは思わないが、単なる類推を遙かに超えたものである。

 

4.実在の基準

独我論の説明:この世はある人の夢の中で想像されているにすぎない。何も実在しない。全ては人の観念の中でイメージされたものに過ぎないとする。

さあソフィーならどう反駁する?

ソフィー>わたしなら、そばにある石をバッシッと蹴っ飛ばすわ。そうすれば、手応えを感じられるわ。

プラトテレス>石を蹴ったのは、心でまず蹴って、それは神経を伝わって、足を動かした。

そして石に蹴り返された足は、また神経を伝わって、脳に信号が伝わって。

つまり信号が伝われば、石が実在するかは、君には分からない。

まずはデカルトの我思う故に我ありを論破しなければならない。

歴史上、真の独我論者はいない。

独我論者の矛盾は、どこかに独我論者が存在するとしていることだ。

独我論者も実在じゃないと証明できないでしょう?

知覚は間接的なものでも有効である。我々が、地球が回転しているのを直接感じることができないのは、単なる進化の偶然である。

インプリケート・オーダーを多宇宙で記述しなおす。

コペンハーゲン解釈ではミクロの世界とマクロの世界を分けているが、これを切り分ける理論は事実上ない。

物理的実在は、ミクロの世界もマクロの世界も自己相似的に結ばれている。

ソフィー>フラクタル?

プラトテレス>今までのフラクタル幾何学ではそこまで、研究が至っていない。

しかし、ミクロとマクロを一貫した自己相似性で説明しなければならないとき、心や進化の構造にも摘要されて必然となる。

問題:フラクタルはどこから来るのか?

 

ガリレオに対する最近の協会の弁明:

ガリレオ>私を異端審問にかけたのは、科学的推理が教義に優先するというその主張そのもんだったんだろ?

いや天文対話は当時の協会の検閲を経て、出版を許されて出版されている。

問題は観測データーと理論による観測結果が合致しないことだ。従って、異端審問裁判の世界観は間違っていたが、観測データーはガリレオより正確だった。

今更ガリレオの名誉回復をおこなったのは、実は、それが教会の名誉回復になるからである。

 

5.仮想現実

計算理論は伝統的に純粋数学として完全に抽象的に研究されてきた。

しかし、これでは、計算の本質は失われる。

コンピューターは物理的な物体であり、計算も物理的過程である。

万能な普遍性をもつコンピューターに何が計算できるかその限界を決定するのは、純粋数学ではなく、物理法則だけだ。

量子コンピューターでは数学では原理的に不可能な計算をも計算できてしまう。

これが可能であるということは物理的実在の自己相似性の一部をなしている。

普遍性の物理的な表示としてもっともよく知られているのが、バーチャル・リアリティーだ。

 

熾烈な自然淘汰の中で、コアラがユーカリの樹という生態学的にニッチに依存して生存可能となっているように、人を生存可能にしている生態学的ニッチは、脳による意識である。

 

実在を直接ピックアップしているのではなく、脳が感じているにすぎない。

故に脳に感じられないものが実在しない主張は、退けられる。

理解は脳による。脳は全て神経からの信号によって理解をする。

神経にパルスを流せば、実在は全て仮想できる。

我々の理解は最後の一片まで、仮想実在の体験である。

我々が直接体験しているのは、われわれの無意識の心が生成した仮想実現的提示である。

同様に全ての生命プロセスも仮想実在を含むが、とくに人間はVRと特殊な関係を保っている。

生物学的にいえば、人間の環境の仮想実在的提示は、生存の為の特異的な手段なのだ。このことは計算だけでなく、人間の想像力と外的体験、科学と数学、芸術と虚構の基礎でもある。

仮想実在生成装置は、どこまでも可能だろうか?

脳に薬品と投じたり、直接電気信号を与えたり、臭いや、重力すら感じられるだろう。

仮想実在が建造可能であるという事実は、単なる技術的事実ではなく、

我々が脳を通じて意識が体験と、様々な実験装置を通じて知ろうとする実在と対して代わりはない。

ようような装置を通じて体験できる実在を存在しないと無視することはできない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

6.計算の普遍性と限界

チューリング・マシン:には限界がある。チューリングがこのマシンで、数学の全てのレパートリーを計算可能であると証明した。しかしそれは数学者による計算は計算できるという意味である。

 

普遍的チューリング・マシン:

チューリングの原理:

対角線論法は論理的に可能な環境の圧倒的大部分が仮想実在のなかには提示できないことを示している。

にもかかわらず、物理的に可能なあらゆる環境をそのレパートリーに含んでいる仮想実在装置は建造することは可能である。

119:量子コンピューターは人間の数学者にはたとえ原理上だけにしても、決してできないような計算を行うことができる。

120:例えば、素数対、つまり3と5や11と13のように差が2である一対の素数の存在は無限個にあるのかそれとも有限個か?数学では今もって、計算可能かどうかすら分かっていない。

しかし、例えそうであっても問題は確かに答えを持っている。有限個か無限個のどっちかが答えだ。第3の可能性はない。答えに行き着かなくても、答えは、ハッキリしている。

121計算不能な問題は計算可能な問題より無限                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             に多い。

 

 それはまた生物の進化を可能にしている。

7.正しさの根拠

隠れ帰納主義者や元帰納主義者に

デヴィット=ホパー主義者

K>ホパーは帰納主義を批判しただけで深刻な帰納法の問題を解決した訳じゃない。

D>それは帰納法によるから深刻な問題になってしまうのさ。

K>では、君たちホパー主義は、何をもって正当化できると考えるんだい?

D>議論さ。-もちろん、暫定的にだけどね。何かを正当化するには議論しかない。

およそ理論化は過ちや何かを免れない。

K>それはこじつけだ。理論が純粋な議論だけで正当化されうもんか!証拠が関わっているに違いない。

D>理論と理論が議論して、優れた理論が生き残る。それには議論が必要なんだ。

議論の仮定は「公理」から始まって「結論に終わるのではない。

どこからでも始まって、最終的に暫定「公理」が採択されるのさ。

それは、何かにもとづくものでも無ければ、何かによって正当化されているのでもない。そこには帰納法も含まれる。

 

 

147:チューリングの原理を正当化する必要なんてないんだ。

僕たちにひつようなのは、物理的実在に関する一目瞭然の事実、つまり物理的実在が自分自身について信頼できる予測を行えるという事実なんだ。

式は究極的な挑戦不可能な真ではない。それは暫定的な説明理論なんだ。だから、答えを無理矢理ねじ曲げる必要はない。

 

8.生命の宇宙的意義

DNA構造にフラクタルはみつかるか?

 

 

 

 

 

8)進化論と 

はたしてこんなことが可能なのだろうか?

進化論と量子論のこの直接な関連で書き表せるのか?

物理の法則は多宇宙を貫く法則である。多宇宙のどこにあっても惑星は球状だろう。

でも高度な知的生命が存在できる極わずかな惑星は、やはり例外的惑星だ。

生命と思考は宇宙でもっとも大きい構造物だ。

でもその生命も

リチャード・ドーキンスなどの還元主義的生物学者は、生物を環境の一部とみなし、

<生きている分子―――遺伝子―――は、生きている分子と同じと法則にしたがうに過ぎない。それらには特殊な物理的属性も含まれてない。ただ一定の環境で、自己複製しているにすぎない。>などと見る。

生命のような創発的現象は必然的にミクロの物理的現象よりも基本的でないという、還元的仮定に基づいている。

これには警告を

この宇宙において最も大きな構造物だ。生命と思考だ。

生物の進化と量子論を直接結びつける議論

生命のような創発的現象が、ミクロの物質より基本的でないちう還元主義は間違い。

9.量子コンピューター

量子計算は単に速いというだけでなく、今まで原理的に不可能だった計算を可能にするのである。

今のコンピューターの原理では250桁の因数分解をするには、100万台で100万年

量子コンピューターでは、10の500乗の平行宇宙に干渉して、計算が並列して行われ数分で解答がでる。

コンピューターでも環境が提供できなきゃ計算できない。

 

10.数学の本性

数学の目標は数学的確実性ではないまして、数学的真理ではない。数学の目的は数学的説明なのだ。

数学が確実性を生み出すというアイデアも神話にすぎない。

ペンローズはゲーテルの結果から更にもっと徹底的で、非常にプラトン的な教訓を引き出している。つまり数学の抽象的な確実性を把握できる人間の心に見せられている。

デーゲルの不完全性定理によって、我々は説明による理解の必要性を迫られた。

ペンローズは、相対性理論でもない、量子論でもない、新しい基本的な物理理論を希望している。

しかし、私は、ペンローズに基本的に反対の立場だ。

ペンローズが深い明確な説明や観測結果をもってきたら受け入れることはやぶさかでない。しかし、私の世界観とはことなるだろう。

 

11.量子的な時間

 

12.タイムトラベルのパラドックス

未来にタイムトラベルをするのはあまり異論はない。

しかし、過去にタイムトラベルをするとなると、たちまちパラドックスを引き起こす。

しかし、タイムトラベルをする度に多世界に移動するとしたら、パラドックスの問題も解決できる。

過去に戻って、親をころしても、これから起こる私の過去とは、世界が別なのである。

 

 

13.四本の撚り糸

クーン批判クーンの理論には致命的な欠陥がある。この理論はあるべきパラダイムからもう一つのパラダイムへの移行を、ライバル説明の客観的な長所によってではなく、社会学的あるいは心理学的用語で説明している。しかし科学を説明の探求として理解しない限り、科学が前のモノよりも客観的にいい説明を次々に見出してきたという事実は説明が付かない。

したがって、クーンは、前のものに取って代わった科学的説明が客観的に改善されていることを、あるいは改善はたとえ原理的にせよ可能であることを、あっさり否定する羽目になっている。

人工知能:現在の計算理論の主流は弱いかたちのチューリングの原理である。しかし、この理論から論理的に導き出せる「人工知能は可能である」とい命題は、同理論の信奉者から感情的に拒否される。

ペンローズのように、新しい計算理論によって、計算理論だけでは、人工知能は不可能であるという科学的、論理的(皇帝の新しい心)な反論は少ない。但しペンローズは、人工知能は不可能といっていない。今の計算理論では不可能だと論じているのである。そこに新しい、生物学的発見(量子脳理論)を加えれなければならないとしているのである。

295:エヴェレットを同じように本来支配的であるべき理論つまり、ホパー、チューリング、ドーキンスが受け入れられないのは、この4本分野がバラバラな科学になっている原因でもある。

それぞれ、魅力を欠く一つの性格を共有している。その為「理想化されており、非現実的」「狭い」「素朴」「冷たい」「機械的」「人間性を欠いている」などいわれる。

296ドイッチュ>脳は古典的コンピューターであって、量子コンピューターではないと私は推測している。

にもかかわらず、計算と量子物理学の統一、更にもっと広範な四本の撚り糸の統一は、哲学が基本的な前進を遂げるのに不可欠であり、意識に対する理解がいつかそこから生まれるだろう。

この説明を背理的と感じるかもしれないが、

297ドイッチュ>しかし意識は、量子論に依存している。特に多宇宙的な世界像に決定的に依存している。だろう。

その証拠はなにか?第8章で論じた知識の多宇宙的見方を論じた。意識はなにかということをまだわかっていないが、知識の成長と密接に関係していることは明らかだ。だとすれば、知識を物理的な言葉で、説明できるようになるまでは、意識とは何かを物理的な言葉で説明できそうにない。

こうした説明は古典的な計算理論では捉えにくかった。だが量子論には都合のいい基礎がある。

例えば、知識は多宇宙にまたがって広がる複雑性として理解でkるからだ。

297自由意志

意識の問題と同様に古典的な計算理論では自由意志は捉えにくい。物理学ともっとも折り合いが悪いのは、物理の決定性の問題がとりあげられる。

自由意志:自由意志と物理学の折り合いが悪いのは、決定論にあやまりがあるのではなく、11章で説明したように古典的時空にある。例え、非決定的(ランダムな)法則に置き換えても、自由意志の問題は解決は解決がつかない。自由はランダムさとは関係がない。肝心なのは、我々が何者であるか意識し、何をしようと考え、決定される行動だ。とはいえその複雑性の問題で予測は不可能。

多宇宙解釈においては、私の他のコピーは他の決定を下す可能性もある。量子的実在のおかげで、物理と自由意志は両立することができる。実際にそうであるという証拠の提示はまだできないが、これは非常に重要な意味を持つ。

このように多宇宙の文脈で理解すれば、チューリングの原理は人間的な価値と切り離されてなく、自由意志のような人間的な属性を理解する障害にならない。

298進化論においてよくある批判はDNAの複雑な構造を単なる偶然の組み合わせでは、膨大な時間がかかり、地球、宇宙の年齢から比較すると不可能であるという計算だ。ドーキンスは、この説明を避けており、生物のような適応の出現がどうして狩野だったかについての説明をしているにすぎない。

これでは十分な説明になっていない。

量子論によれば、物理変数は情報を蓄えることができ、互いに相互作用して情報を交換できる。

 

エヴェレット、ホパー、チューリング、ドーキンスが十分理解されれば我々は十分に人間的な自由意志を認めた理論を組み上げることができるのだ。

・エヴェレット、

・ホパーの批判的発展:ホパーの認識論にも説明のギャップがある。その批判者は、科学的方法がなぜうまくいくのか、あるいは最良の科学的理論に頼ることを正当化しているのは何かを問う。その結果帰納法などを採用する。

ホパーは「知識の理論は、事物を説明するわれわれの試みがなぜ成功するのかを説明しようとしてはならない。」{客観的知識}と語っている。だが、知識の成長が物理的過程であると理解すれば、それがいかにして起こるか、なぜ起こるかを説明しようとするのは決して不可能ではない。

認識論は広く認められた物理学理論であり、そこで語られる創発性もまた認められている。しかし、知識の理論のそれ自体の内部だけでは、それらがなぜ真であるかの説明を見出すことはできないとも語っている。

その狭い意味では、ホパーは正しかった。完全な説明にする為には、量子理論、計算理論、進化論がふくまれなければならなかったのだ。

 

4つの分野で、その分野で正しいと思われる理論も、その欠点を蒸し返し攻撃されることによって、防衛的理論となり、「私はここにしがみつく、他のことはできない」という対処となる。それは前にもまして、理論を狭量にし、非人間的で悲観的なものにしている。そしてその理論の発展の芽を自ら摘んでしまう。

それぞれの分野の理論が最高の高みに達した時に、真の説明に対する無感動、自信喪失、悲観論が現れた。

それが実証主義や道具主義的な科学観の隆盛を結びついたのだ。そして決定的な悲劇が起こった。コペンハーゲン解釈の隆盛だ。

 

このことは、20世紀の大部分の期間に渡って、非常に望ましくないことが基礎科学を哲学に起きたことを示している。

 

300実在の織物の統一された説明として統合すれば、この不幸な性質は逆転することができる。

それは自由意志を否定したり、人間的な価値を些細で重要でない文脈に置いたり、悲観的になったりしない、むしろ、楽観的な世界観であって、人間の心を物理的宇宙の中心に置き、説明と理解を人間の目的の中心に置いている。この統一された見方を、存在してもいない競争相手を弁護するために、あまり長い時間を費やして後ろを振り向き、狭い理論にしてしまわないように私は望む。実在織物の統一された理論を真剣に受け止め、それをさらに発展させようとし始めれば競争相手に不足することはないだろう。いまこそ進むべきなのだ。

 

14.宇宙の終わり

ソフィーの希望的

自由意志だけは、保持したい。こうした目的をもって都合の良い理論だけをセレクトしちゃいけないんでしょ?

ファイヤアーベント>いいや、何でもありさ

ホパー>反証可能な科学的なものであれば、目的をもってもかまわない。

クーン>確実だと思われたものが、永遠に確実でないように、不確実なものが永遠に不確実ということはない。

ソフィー>3哲人にそういってもらえると心強いわ。では我が儘のままと、希望的観測も含めて、そして復習もかねて、

1)物理の分野では、

アインシュタインとコペンハーゲン解釈は和解して欲しい。そのスキームは、

アインシュタインは量子力学の結論が誤っていると反対したのではなくて、あくまでボーアの解釈に反論した。多世界解釈は、理解可能であって、アインシュタインは満足しただろう。

そうなると、ボーア解釈の基礎であるハイゼンベルグ方程式とエヴェレット解釈の基礎であるシュレディンガー方程式は、ディラックの変換しきでイコールで結ばれるから

ボーアとアインシュタインは、必ず和解できるはず、

 

ハイゼンベルグ

行列力学

ディラックの変換式

シュレディンガー

波動力学

 

 

 

 

 

 

 

量子力学

ボーア

コペンハーゲン解釈

両者は同じ結論

量子力学

エヴェレット

多世界解釈

アインシュタイン

 

 

 

 ミクロの世界もマクロの世界も自己相似性によって結ばれる。

脳から進化までを含む

ミクロの世界の平行宇宙は、必然、脳の中まで、平行宇宙

この量子的干渉から、意識は生まれる。

多世界解釈は物理分野では正解をうまく説明できるが、新たな哲学的な問題を引き起こすという考えは誤り。

この解釈の導入で今までの科学では説明できなかった、自由意志の存在の問題を解決する。多世界解釈によって自由意識を可能とし人間性の復活が可能になる。

 

 

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174「世界の究極理論は存在するか」 多宇宙理論から見た生命、進化、時間 デイヴィッド・ドイッチュ The Fabric of Reality David Deutsch 1997 年 (訳: 林一 1999 年) 朝日出版